趙州の 猫の首にも 蓮の花 禅宗でしょうか。 後ろの木は菩提樹。小さなお寺でお坊さんは見かけなかったけど、町を歩いていたら剃髪僧衣の人にスマホ屋で出会った。せめてお坊さんにはスマホを持っていてもらいたくなかったのだけれど。
2019年7月のブログ記事
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猫の目を 借りて見つめる 雨季の川 チャウドックに着いた。ロンスエンからまたバスで2時間、ここはカンボジアとの国境の小さな町だ。 川沿いには川にせり出して多くの家が建っている。そんな通路の一つ そこを抜けると や な感じ。 後2週間くらいしたらこの川を遡ってカンボジアに入る。
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日本を出て2か月以上の日が経ち、日本語に飢えてきたのでネットで本を買って読んでいる。今「カラマゾフの兄弟」を読んでいてその中に、私の書いた「花の喩え」と同じものだと思えるのがあったので引用したい。もちろんこっちの方が何倍も優れている。 3 熱烈なる心の懺悔ーー詩 美ーーこいつは恐ろしい、おっかない... 続きをみる
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前回の記事で「空性は名詞であり空は形容詞あるいは動詞である」と断定してしまったが、サンスクリット語もチベット語も私は初心者なので、そう断定してよかったのだろうかと今迷っている。先生方はどのようにお考えでしょうか。
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私が妄語を語らぬように釈迦牟尼仏ならびに龍樹菩薩に礼拝いたします 『空』は仏教における一大問題だが、それだけ取り上げてみてもあんまり取り留めがないので、『空性』という言葉と対にして考えてみたい。日本語あるいは漢語では両者はあまり違いを感じないが、サンスクリット語とチベット語では空をそれぞれシューン... 続きをみる
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バナナの葉は驟雨に輝き 真昼の光は弾けて水面に揺れる 金色の蜜蜂達が秘め事を囁き交わし 紫色の桔梗達が小首を傾げる 風はなく くっきりとした雲は動かない 目の前を13才の女神がまっすぐ歩き 濃い闇があたりにゆっくりと忍び寄る
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前回の記事で写真を添付できなかったので追加します。バイディン寺の福禄寿です。
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私が抱えている問題は「私とは何か」「世界はどのように成立しているのか」を探究することにあります。「私は存在している」「私は私である」「A=A」という自明な言葉には何か違和感というか不快感をずっと感じていました。それをうまく説明することはできないのですが、例えば、パジャマを着たまま学校へ来てしまった... 続きをみる
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