奥の細道を求めて

仏を求める旅

中道について



大乗仏教の基本理念である中道の解釈には変遷がある。最初にお釈迦様が説いた中道は、苦行によっては涅槃(ニルヴァーナ、こころの平安)に至ることはできない、ということだった。マハーバーラタを部分的にだけど読んでいるとバラモン教の多くの苦行者は圧倒的な力である神通力(超能力)を手に入れてその力によって自分の目的を達成しようとしているようだ。それに対してお釈迦様は暴力的な力によっては、究極的な目的である解脱/悟り/涅槃は得られない、と説いた。お釈迦様が生きた時代は侵略して来たアーリヤ人とインド原住民との戦乱の時代(お釈迦様の晩年の頃、生まれ国だったシャカ国もマガダ国によって滅ぼされてしまうという悲劇に遭遇した)だったのでその解決の糸口が縁起と空だった、のだと私は思っている。


時代が下って龍樹の頃になるとアーリヤ人のバラモン教と仏教との論争が激化して、より真実に近いのはどちらなのかという議論になって来る。当時のバラモン教の主流はヴェーダーンタ学派だと思うので彼等の主張を紹介すると、漢訳では「梵我一如」と訳されている。梵はブラフマン(あるいはブラフマーでその場合は創造神)で宇宙原理のようなもの、我はアートマンで私自身の本質のようなもの、一如は同じということ。つまり宇宙の始まりとそれを維持するものがこの私自身だ、ということだ。つまりこの私が神であると説いている。記憶の曖昧な私がその部分を引用すると、

バラモン階級の高名なお父さんが息子にバラモン教の深遠な教えを説いている。神話である宇宙の成り立ちや神々の偉大さ、悪魔たちとの大戦争の歴史などをね。何年もの教授の後で、お父さんが認可して「汝自身がそれである」と息子に伝える。その息子の身になったとしたらその時のショックはとてつもないものだろう。長年教えられた偉大な神々と宇宙の全歴史がおまえ自身だと宣告されてしまったのだからね。


それに対して無神論である龍樹は「空」を主張した。これは、私の解釈では、すべての命題(主張)には必ず決定不可能性が内在する(この問題はヴィトゲンシュタインの「哲学における言語化の限界」、ゲーデルの「不完全性定理」、量子力学の「観測問題」とも関係するのでのちの課題として保留しておこう)、ということだ。でもそれを『中論』として主張したのだからそこにも根本的な矛盾が内在するのだけど、それはひとまず置いといて、つまり龍樹においては空と中道は同義である、ということだ(補足しておくと一般には中道は実在論と虚無論という極論を避けるもの、として理解されている)。ついでに言うと縁起もそこに含まれるので、中道と空と縁起は龍樹においては同じカテゴリーに含まれている。でもそれだと私としては、空と縁起を対応(あるいは相関)させる仏教の基本理念が曖昧になってしまうと思う。縁起に対応させるなら空よりも無のほうがきっぱりしてていいんじゃないだろうか。中国の禅思想で無を強調するのは、縁起と同類の空では縁起と空を先鋭的に定義できなかったからだと私は思う。よく空と縁起はコインの裏表のようなものとして例えられるけど、縁起が表なら裏は無で空はその間にある。そのような禅思想に倣って以後私は仏教の根本理念を縁起、空、無の三つに分類したい。

縁起とは今ここにある私とそれを取り巻く状況のことであるのだけど、それを価値(煩悩)づけず最低限の意味づけだけで済ませようとする立場のことだ。

空はそこから一歩進んで意味づけの全てを否定する。一切の先入観を捨ててありのままの世界を見ようとする立場だ。無には空間も時間も重さも無いので言語化することはできない。真に語り得ないもので、ここがヴィトゲンシュタインのいう哲学の限界だろう。

そのように設定すると仏教の全体構造が把握しやすいと思う。縁起と無を対極にしてその中道として空が成立している。

お釈迦様が初転法輪で縁起を説いたのは、ヴェーダンタ学派のような(その頃はまだヴェーダンタ学派は成立していないけど神を定立するバラモン教に対して)現実から遊離した形而上学を否定する入り口としてそれがふさわしいとお考えになったからじゃないだろうか。お釈迦様は空にその座をしめておられる。


ここで時間について考えてみたい。

縁起の時間は強い煩悩が排除されているので、通常の時間の流れよりもゆっくりになる。空ではその流れが止まる、意味が失われたところに時間は流れない。無には時間が存在しないので、そこでは語る言葉も存在しない。

ここで私の論証の裏打ちとして江島惠教の『中観思想の展開』を引用したい。「全ての存在は空であるということを主張する場合、例えば ''全ては空である'' という言明そのものも、それが一個の存在として把握されるかぎり空であると言わなければならない。バーヴァヴィヴェーカにあってその言明は全て論理学的な論証と論破とを形式とする。もしも空が非存在の意に解釈されれば、論証・論破を形式とする全ての言明も端的に非存在になってしまい、意味をなくしてしまう。通常の観念・言語を離れた空性を観念・言語によって如何に表出するかは、中観学派において極めて根本的な問題であった」。

現代の量子力学でも時間は難しい問題だ。時間が過去から未来に向かって一方向にしか流れない、と言うのはマクロ(人間)の視点からの見方であってミクロ(量子力学)の視点から見れば過去と現在と未来は区別できない、と主張する学者(カルロ・ロヴェッリ)もいる。エントロピーが増大するというのは大まかな熱力学の中の一つの見方でしかないので、ミクロの単位で見れば整合性(秩序)は破綻しない、と彼は主張する。エントロピー(拡散/浸潤/混乱)は時間が存在しなければ成立しない概念なので、そもそも時間が存在しなければエントロピー増大の法則は成立しない(これはつまり時間、生きられている時間は開かれた系であるマクロな人間の視点からしか発生しないという主張でもある)。

ここで共時性という概念を検証してみよう。共時性というのは私とあなたとが同じ時間を共有している、ということだ。でもこの共時性は私とあなたが近くにいないと成立しない。例えば私が地球にいてあなたがアンドロメダ星雲の中のどこかの惑星にいたら、私とあなたは会うことができないのだからそこに恋は生まれない。共時性(恋)は距離が離れてしまうと維持できない。でもこれは単に距離の問題だけではなく、距離が離れるとそこに流れる時間の質が変わってしまうということでもある。違う時間の流れの中に共時性は成立しない。遠距離恋愛が難しいのは物理学の視点から見ればそのせいだ。アインシュタインが主張した相対性理論の前提である共時性という概念は同じ重力場の近くにあることを前提にしている。決してニュートンが想定したようなどこでも同じ固定した直線的な時間軸上にはない。数センチでも離れてしまうとそこには乖離(共有する熱の減少/エントロピーの増大)が発生してしまう。アインシュタインが予想したように時間は関係性の中にしかない。なので恋する二人はいつも一緒(閉じた系の中)にいないとその恋は維持できない。でもそんなことは実際にはできないのだからエントロピーは増大しやがて恋は冷める。

でも/だから恋を認めるチベット仏教は上座部仏教のように密教(縁起/熱/時間の起源)を排除しない。そこにマンダラ/宇宙は成立しているのだから。

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