最近サンジャナは毎日スマホを借りに来る。最初は電話だけだったのが今ではエンタメアプリも観ているらしい。一度貸すと2,3時間は返ってこない。スマホの設定をいじられるのが嫌なので、電話以外のアプリをタップしてはいけないよ、と言っているのだけどエンタメの誘惑には負けてしまうのだろう。YouTubeでボリウッドの映画や映画音楽を観ているらしい。その気持ちは私にも分かる。チベット語の授業のために勉強しなくてはいけないのについYouTubeのアニメやマンガを観てしまう。なので多少は大目に見ている。
サンジャナは英語が上手く使えなくて私はヒンディーが少ししか使えない。なので会話によるコミュニケーションは上手く行かないことも多いけど、不思議なもので顔を合わせて言いたいことを伝えようと思えばなんとか伝わる。それは私とサンジャナが共にガムルー村で暮らし同じ体験を多くしているからだ。そして、これが縁起ということである。
仏教とバラモン教との間にもなんとなくこれと似たところがある。仏教はバラモン教の中から生まれたので似ているのは当たり前なのだけど、根本的に違うのは実在を認めるか否かという点にある。多くのバラモン教学派は神という実在を認めるのに対し、仏教は一切の実在を認めない。それ自体で存在するものは何もなく、すべては関係性の中で成立しているだけであると考える。なので仏教は伝統的なインド六派哲学には加えられなかったけど、覚り/悟りを究極の目的としている点では仏教のみならずインドの宗教全てが一致している。ではここで、悟りとは何かを考えてみたい。例としてヴェーダンタ学派シャンカラの「不二一元論」が解り易いと思う。彼はヴェーダの教えに基づいて、ブラフマン(宇宙を統べる原理)とアートマン(私を統べる原理)が同じであること、を自覚することが悟りであると規定した。つまり宇宙の根源と私の根源は同じであるということで、神(あるいは世界という実在/客観)と私(という世界の中心としての実在/主観)という二元論を一元論にした。仏教ではこのような世界と我を統一した一元論は認めない。バラモン教と仏教では世界の見方の視点が違うのである。バラモン教は世界を個々の構成部分の集合体と観るけど、仏教は世界全体を相互依存/縁起という関係性として捉える。そしてそれには空も例外ではない。普通、仏教での覚りは「諸行無常」「諸法無我」としての空であると解釈されていることが多いと思うけど、私はそうは思わない。仏教は縁起と空の二元論でありそれが相互補完的に関係して世界を構成していると考えている。そしてこれは縁起と空、あるいはアートマンとブラフマンを繋ぐはずの言葉の解釈でも同じで、バラモン教文法学派のバルトリハリもWikipediaによれば
「宇宙の根本原理は言語ブラフマンであり,諸現象はその仮現であるとしている[5]。バルトリハリの主張は「言葉はブラフマンである」という宣言だと言えよう[6]。」とある。
おそらくバルトリハリはサンスクリット語の普遍性を信じていたのだろう。サンスクリットというのは名前からして完成された(変化しない)言語という意味である。バルトリハリは口語とは違って変化しにくい文語としてのサンスクリットをブラフマン(創造神)という実在として信じたのである。そしてこの「諸現象は仮現でしかない」というのは仏教中観派の主張と同じであるけれど、バルトリハリは言葉を実在として信じた点で中観派と異なる。なのでシャンカラカラとバルトリハリが立場を同じにしているのに対し、中観派はあくまでも言葉を相対的なものとして捉える。仏教では言葉も空も縁起もそれ自体で存在するものではなく相互依存として仮初めに成立しているものでしかない、と考えている(私の解釈だけどね)。
さて、バラモン教からは虚無論者と評価されることが多いサンジャヤ・ベーラッティプッタも悟りを希求した。これもWikipediaに拠れば
「サンジャヤ・ベーラッティプッタ(パーリ語: Sañjaya Belaṭṭhiputta)は、インドの思想家。不可知論者、懐疑論者である。正統バラモン教の伝統にとらわれず自由な思索を行い、当時サマナ(沙門)、または正統バラモン教側からはナースティカ(虚無論者)と呼ばれた在野の自由思想家の一人である[3]。釈迦に先行する思想家で、古い仏教文献では六師外道と記されている[3]。真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする不可知論である[4]。形而上学的な重要問題に対して確答せず、判断を中止する態度を採った。懐疑論とも言える立場であるが、彼の態度は、抜け出すことの困難な形而上学的な難問を議論することの意義を問う判断中止(エポケー)の表明であると言える[5]。彼は「来世があるのか」という問いに対し、次のように答えた[4]。もしもあなたが「あの世はあるか」と問うた場合、わたしが「あの世はある」と考えたならば、「あの世はある」とあなたに確答するでしょう。しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。」とある。
これは仏教の「十無記」や「四不可知」と同じである。私は、お釈迦様の導き手は彼だったのだろうと思っている。ちなみにお釈迦様の高弟の二人、舎利弗(しゃりほつ / シャーリプトラ)と目連(もくれん / マウドガリヤーヤナ)も元はサンジャヤの弟子だった。シャーリプトラはお釈迦様の弟子の一人にその教えを聴き250人の弟子と共にお釈迦様に帰依したと伝えられている。サンジャヤの教えとお釈迦様の教えが近似していたからこそシャーリプトラはすぐに理解できたのだろう。そしてこれは仏教教団が大きくなった最初のエピソードである。
他者の言葉を理解するためには共通の体験をしていることが必須である。シャーリプトラはサンジャヤの教えからその真髄を体験していたから、お釈迦様の教えもすぐに理解できたのだろう。しかし一般の人は世間の言葉という共通の虚構(私はユングの説く集合的無意識や岸田秀の説く唯幻論もこの虚構としての言葉のことだと思っている)に沿って世界を体験している。その結果人間はありのままの世界を体験せずに、言葉を通して人間にとって都合の良い世界を構築してしまった。これが仏教で言う「無始劫来の業」であり「無明」ということでもある。ここは少し解りにくいかもしれない。一般的には、これもWikipediaに依れば
「無明(むみょう、梵: avidyā)とは、仏教用語で、無知のこと[2][3][4][1]。とくに仏教の説く法(真理)に暗いことをいう[1]。この概念は、形而上学的な世界の性質、とりわけ世界が無常および無我であることの教義についての無知を指す[3][5][6] 。無明は苦の根源であり、最初の因縁の輪に結びつき、繰り返す転生の始まりとなる[7]。」とある。
つまり空と縁起を覚ることなく個々人が生き延びるためだけの言葉という方法論が「無始劫来の業」であり、その言葉に執着してしまうのが空に対する無知という「無明」のことである。
しかし人間は文字を生んだ。文字という虚構は世代を越えて受け継がれるので、話し言葉というその世代にとっての受け入れられ易い世界観を遡って修正して行く。そのような変化の過程が関係性としての文化という縁起のことである。言葉には二面性がある。意味の固定化とそれを改変して行く可能性の二面である。一般的な言葉は意味を固定化(価値づけ)してしまいがちなのに対し、中観派開祖のナーガールジュナはその言葉を意味の固定化を壊すために使った。つまり縁起と空の個々別々の意味の固定化を否定したのである。そしてそのような仮初めの縁起と束の間の空が融合された状態が涅槃(平安)であり、仏教はそれを探究する。