奥の細道を求めて

仏を求める旅

Tibet Kitchen というマクロードガンジのレストラン

寒烏

マクロードで有名なレストランで私は月に一度くらい食べに行く。もう9年前から通っているから常連で、いつも頼むのは決まっているからスタッフはメニューも持たずに注文を取りに来る。私がいつも頼むのはチベタンティー、半ライスかティグモ、メインはグレイビーシャプタかパラクチキンのどちらかだ。ティグモというのは小麦粉を練って柔らかく蒸したチベットの饅頭。シャプタというのはチベットの伝統料理で羊肉(インドなので牛肉は使えない、チベットではヤクという牛の仲間の肉でも食べられているらしい)を野菜と煮込んだ具沢山なスープのようなもの。パラクチキンはインドのカレーの一つで、ほうれん草をペースト状にしてそこにローストしたチキンを入れて煮込んだもの、どちらも旨い。このレストランは屋外のニ席だけならタバコが吸えるので私はよくこのレストランを利用している。でも日によって味に違いがある。料理する人の違いによるのだろう。香辛料の使い方に差がある。チベタンティーの味からして違っているからチベタンティーにも香辛料が入っているのだろう。日本では味のベースは出汁だけどインドでは香辛料で、香辛料は山のようにありその組み合わせによって味が決まる。日本ではどこのレストランでカレーを食べでもだいたい味は同じだけど、インドでは違う。使う香辛料の組み合わせと配合のバランスによって全て味が変わる。私も自分でインドカレーを作ってみようと思ってマサラ(香辛料)を揃えたけど、あまりに複雑なので諦めてしまった。それはインド人も同じらしく、料理の種類によってそれ用のマサラがブレンドされて売られている。

あと、中心のメインスクエアからは少し離れているけどPianoというレストランにもテラス席があるのでそこでもタバコが吸える。Tibet Kitchenにはビールを置いてないけど、ここにはあるのでビールが飲みたい時にはここを使う。他にも豚肉が食える中華レストランもあるので、マクロードにお越しの際は利用してください。どちらも美味いレストランです。

あとメインスクエアにはMcLlowという有名なレストランがありビールが置いてあって料理も旨いのだけど、ここは値段が高くタバコも吸えないので私はあまり使わない。

空の言語化の試み ♯12.1 世界の意味を再構築する

寒烏

以前の記事で、「空を言語化するには、日常生活(縁起)の中でその意味(価値基準)を無化する空をできるだけ多く差し挟むこと、つまり縁起の中で空を生きることによって実現される」と述べたけど、これは世界の意味をもう一度再構築するするというこでもある。通常の世界の意味は、多数の主観による価値づけの総合によって成立しているけど、それを無化するのである。でもこれは、多数の主観を否定して私の価値基準に基づいて世界を再構築する、ということではない。多数の主観による価値づけは固定化してしまいやすいので、その価値づけをそのつど無化して価値づけをしない清浄な意味の世界を現前させる、ということである。そしてこれは私が生きている世界を私の感情によって評価せず世界のありのままを見る、ということでもある。でもこれはとても難しい。私たちは普通、感情によって世界を価値づけて見てしまっていて、それに慣れ捉われそれ以外の見方があることに気づかない。その見方を変えるのが、カントが「コペルニクス的転回」と呼んだのと同じ、「縁起」の世界における「空」である。「世界は空である」ことに気づくことが覚りと呼ばれる。お釈迦様は7年の木食行の苦行の末に山を降り、川のほとりで村娘のスジャータにミルク粥を布施され菩提樹下で覚りを啓いた。それまでは「覚り」というものが実在していると思って探し求めていたけど、その実在は幻でしか無く世界に確定した意味や人間の都合による価値づけは無いこと、つまり「世界は空である」ことに目覚めた。それが覚りである。お釈迦様の源語であるブッダはサンスクリット語で「目覚めた人」という意味であり、夢を見ていたような仮初めに意味づけられた世界を捨て「(縁起を含む)空」に目覚めたのである。

そしてその「空」の意味を伝えるために、かつての五人の修行仲間に鹿野園で「初転法輪」を説いた。それが「苦集滅道」の「四聖諦」である。解り易く縁起の側から、空をお説きになった。「世界は苦しみ(牢獄)だけど、それには原因があり、その苦を滅するための、方法(空という道)がある」という「四聖諦」だ。一番遅い仲間でも一週間で覚りが啓けたらしい。

お釈迦様から遠く離れた現代の私たちが覚りを啓くためには、仏教の本質を生きた現在の第十四世ダライ・ラマ法王のお話しを聴くこと。初期法典である『スッタニパータ』を読むことやそこから派生した中観派の論書を読むこと。信頼できる師について学ぶこと。一点に集中するシャマタ瞑想を続けて、世間によって価値づけられた意味としての世界を捨て、ヴィパシャナー瞑想によってその世界を再構築することが必要である。その上で差異としての意味という清浄な、偏見(価値づけ)を持たない世界観を構築すること、それが「空の言語化」ということである。

メメント・モリ

寒烏

ラテン語で、「死を忘れるな」と訳される。死はいつもあなたの横にいる。どんなに栄華を極めている時も死はすぐそこにある。『平家物語』や『方丈記』にも説かれているように、この思想は洋の東西を問わずどこにでもある。

そして、山田五郎が死の数日前に撮ったYouTubeチャンネル最後のテーマもこれだった。死の間際だから息も絶え絶えで観るのは辛いけど、とても良い講義なのでぜひ観て欲しい。収録したスタジオである彼の自室にはドクロを持った少女像が置いてある。彼が伝えたかったのは死を前にした自分の姿とそれを持つ少女との対比だったのだろう。

西洋でこの画題が大流行したのはペストが猛威を奮っていた時代だった。死がすぐ横にある状況で、権力や財産の虚しさを実感したのだろう。生と死が隣り合う傑作では、ヤン・ブルューゲルの美しい花瓶に生けられた薔薇の花の下に死んだ蛾や虫に喰われた若葉が散らばった絵で、彫刻では生きていた人間がリアルに腐って行く過程を彫った作品もある。他の、死に類似した画題には髑髏、火の消えた蝋燭、中身が空っぽの貝殻などがあり、死の象徴として描かれることが多いようだ。そしてメメント・モリ(死)の対句であるカルぺ・ティエムは「今日の花を摘め」という意味で、明日死んでしまったらできなくなってしまう事(山田五郎にとっては今回の収録)は今日しなければいけない、という意味であるとともに「花である若い女性を今すぐ摘め」という意味も含んでいるらしい。メメント・モリとカルぺ・ティエムは同じコインの裏表で、その二つで一つの意味を作っている。そして仏教では、同じことを空と縁起で説いている。

日本画では(伝)英一蝶作とされる『小野小町九想図』が有名で、これは秀才であり絶世の美女でもあった小野小町が歳を取り宮廷から離れて平民に下り死んで野晒しにされ肉が腐って獣に食い荒らされやがて骨になるまでを描いた作品だ。より仏教での真意を伝えるものでは、禅の書に「死」という文字の上に「生」という文字を重ね書きした作品もある。西洋では権力や財産の虚しさを説いたのに対し、日本画では生と死の出会いを描いたものが多い。日本画の一ジャンルを形成している幽霊画では、死んだあなたがそこにいてそれを画面のこちら側から私が見ている、という画題が多く、月岡芳年や円山応挙が描いたと伝えられている幽霊画はその代表である。死んだ女と再会するという意味があったのだろう。幽霊は女性が似合う。最近では松井冬子の幽霊画が有名でおそらく松井冬子も、裏の死んだ自分である幽霊と表の今生きている自分自身との出会いを目指したのだろう。