奥の細道を求めて

仏を求める旅

インドの豆腐の旨い食い方

寒烏

インドにも豆腐があるのだけどあまり旨くない。水の質の悪いインドで旨い豆腐が作れないのは当たり前だけど、硬くボロボロでどう料理しても旨くならない。諦めていたのだけど、先日たまたま近くの店でコチュジャンを見つけたのでスンドゥブを作ってみたらこれがイけた。スンドゥブは韓国料理で豆腐と辛味噌(コチュジャン)を煮込んだ料理だ。硬く質の悪いインドの豆腐でも20分くらい煮込めば味が染みて旨くなる。キムチや海鮮や肉を炒めてから煮込めばもっと旨くなるらしい。先日近くの店でインド製のキムチを見つけたので試してみたら本当に旨かった。魚介類でも試してみたいけど、ダラムサラでは冷凍食品でしか売ってないから近くの店にはない。仕方ないから当分は諦めよう。

それから、硬くてボロボロになるなら炒り豆腐はどうだろうかと思って試してみたらこれもイけた。ただしあまりに硬いからあらかじめまな板の上で砕いておかないといけない。細かく砕いた豆腐を表面に焼き目が付くまでフライパンで炒る。インドの豆腐は水分が少ないので比較的早くできる。そこに甘辛いタレを絡めて完成だ。肉に乏しいインドでタンパク質が豊富な豆腐が食えるようになったのはとても嬉しい。

Tibet Kitchen というマクロードガンジのレストラン

寒烏

マクロードで有名なレストランで私は月に一度くらい食べに行く。もう9年前から通っているから常連で、いつも頼むのは決まっているからスタッフはメニューも持たずに注文を取りに来る。私がいつも頼むのはチベタンティー、半ライスかティグモ、メインはグレイビーシャプタかパラクチキンのどちらかだ。ティグモというのは小麦粉を練って柔らかく蒸したチベットの饅頭。シャプタというのはチベットの伝統料理で羊肉(インドなので牛肉は使えない、チベットではヤクという牛の仲間の肉でも食べられているらしい)を野菜と煮込んだ具沢山なスープのようなもの。パラクチキンはインドのカレーの一つで、ほうれん草をペースト状にしてそこにローストしたチキンを入れて煮込んだもの、どちらも旨い。このレストランは屋外のニ席だけならタバコが吸えるので私はよくこのレストランを利用している。でも日によって味に違いがある。料理する人の違いによるのだろう。香辛料の使い方に差がある。チベタンティーの味からして違っているからチベタンティーにも香辛料が入っているのだろう。日本では味のベースは出汁だけどインドでは香辛料で、香辛料は山のようにありその組み合わせによって味が決まる。日本ではどこのレストランでカレーを食べでもだいたい味は同じだけど、インドでは違う。使う香辛料の組み合わせと配合のバランスによって全て味が変わる。私も自分でインドカレーを作ってみようと思ってマサラ(香辛料)を揃えたけど、あまりに複雑なので諦めてしまった。それはインド人も同じらしく、料理の種類によってそれ用のマサラがブレンドされて売られている。

あと、中心のメインスクエアからは少し離れているけどPianoというレストランにもテラス席があるのでそこでもタバコが吸える。Tibet Kitchenにはビールを置いてないけど、ここにはあるのでビールが飲みたい時にはここを使う。他にも豚肉が食える中華レストランもあるので、マクロードにお越しの際は利用してください。どちらも美味いレストランです。

あとメインスクエアにはMcLlowという有名なレストランがありビールが置いてあって料理も旨いのだけど、ここは値段が高くタバコも吸えないので私はあまり使わない。

空の言語化の試み ♯12.1 世界の意味を再構築する

寒烏

以前の記事で、「空を言語化するには、日常生活(縁起)の中でその意味(価値基準)を無化する空をできるだけ多く差し挟むこと、つまり縁起の中で空を生きることによって実現される」と述べたけど、これは世界の意味をもう一度再構築するするというこでもある。通常の世界の意味は、多数の主観による価値づけの総合によって成立しているけど、それを無化するのである。でもこれは、多数の主観を否定して私の価値基準に基づいて世界を再構築する、ということではない。多数の主観による価値づけは固定化してしまいやすいので、その価値づけをそのつど無化して価値づけをしない清浄な意味の世界を現前させる、ということである。そしてこれは私が生きている世界を私の感情によって評価せず世界のありのままを見る、ということでもある。でもこれはとても難しい。私たちは普通、感情によって世界を価値づけて見てしまっていて、それに慣れ捉われそれ以外の見方があることに気づかない。その見方を変えるのが、カントが「コペルニクス的転回」と呼んだのと同じ、「縁起」の世界における「空」である。「世界は空である」ことに気づくことが覚りと呼ばれる。お釈迦様は7年の木食行の苦行の末に山を降り、川のほとりで村娘のスジャータにミルク粥を布施され菩提樹下で覚りを啓いた。それまでは「覚り」というものが実在していると思って探し求めていたけど、その実在は幻でしか無く世界に確定した意味や人間の都合による価値づけは無いこと、つまり「世界は空である」ことに目覚めた。それが覚りである。お釈迦様の源語であるブッダはサンスクリット語で「目覚めた人」という意味であり、夢を見ていたような仮初めに意味づけられた世界を捨て「(縁起を含む)空」に目覚めたのである。

そしてその「空」の意味を伝えるために、かつての五人の修行仲間に鹿野園で「初転法輪」を説いた。それが「苦集滅道」の「四聖諦」である。解り易く縁起の側から、空をお説きになった。「世界は苦しみ(牢獄)だけど、それには原因があり、その苦を滅するための、方法(空という道)がある」という「四聖諦」だ。一番遅い仲間でも一週間で覚りが啓けたらしい。

お釈迦様から遠く離れた現代の私たちが覚りを啓くためには、仏教の本質を生きた現在の第十四世ダライ・ラマ法王のお話しを聴くこと。初期法典である『スッタニパータ』を読むことやそこから派生した中観派の論書を読むこと。信頼できる師について学ぶこと。一点に集中するシャマタ瞑想を続けて、世間によって価値づけられた意味としての世界を捨て、ヴィパシャナー瞑想によってその世界を再構築することが必要である。その上で差異としての意味という清浄な、偏見(価値づけ)を持たない世界観を構築すること、それが「空の言語化」ということである。