似たような言葉として、覚り・解脱・涅槃があるけど、それらはどのように違うのだろうか。以下に述べるのは私の個人的な解釈であり反論も多いと思うけど、とりあえず今の私の考えを述べてみたい。
覚りとは空と言うか、どちらかと言えば無を体験することである。普通、菩提樹下のお釈迦様の覚りは縁起だったと言われることが多いけど、私はこの時点ではそれは無だったと考えている。無は生に対する執着を無化することである。六年間の前正覚山の苦行で死の淵に立ったお釈迦様にとって死は切実な恐怖だったことだろう。でも菩提樹下の覚りによって死の恐怖を克服して無を客観的に見ること/相対化すること(空)ができた。それが覚りということである。もしそれが縁起だったら、縁起は世俗諦だから言語化できるのでお釈迦様は説くことを諦めなかったはずだ。ちなみに、インド中観派で無を否定するのは当時のインド哲学ではサンジャヤの虚無論(六派哲学の見解)が存在したので、それと差別化するためである。でも仏教学者によればサンジャヤの懐疑論は唯名論/不可知論であって仏教の見解に近いらしいのだけど、お釈迦様はサンジャヤを擁護しなかったらしい。それとも、あるいは内包したのだろうか。
解脱とは覚ることによって輪廻の苦から解放されることである。インドの宗教はすべてこの解脱を目的にしている。でも私は長い間なぜインドの宗教がみんな解脱を目指すのかが解らなかった。宗教というのは人を脅かす自然の脅威に対する解釈であり、それから逃れるための手立てであると思っていたのだけど、インド宗教はそれとは成り立ち方が違うようだ。これは私の想像なのだけど、アーリヤ人は東欧の戦争に負けて生き場所を求め、インドに侵攻し先住民族を征服して奴隷にした。おそらく千年にも渡る戦争の繰り返しの中でアーリヤ人も土着のドラヴィダ人も疲弊しきっていただろう。そのような疲弊から解放される手だてとして解脱という究極の自由を求めたのではないのだろうか。つまり解脱とは戦争/束縛/牢獄からの解放のことである。
涅槃とは空のことである。覚りによって無を体験し、解脱によって自由を獲得した上で、空によって涅槃に入る。涅槃とは無と有との統合 のことであり、禅宗の『十牛図』の最後に説かれる「入鄽垂手」もこのことだ。私は長い間、矛盾する無と有を統合することはできないと思っていたけど、無を空と捉え有を縁起として捉えればそれはできるのかもしれない。それによって空を言語化することも可能なのかもしれない。覚りと解脱によって断ち切られた世俗の時間がここで再び流れ始める。でもそこには私とあなたの区別もないし、存在と意味も無化して区別はないのだけれど、ただ変化する世界を見ている識の時間だけは流れている。それが生きられている(物理的ではない)時間であり縁起の本質である。縁起とは生きられる時間のことである。とは言え、生きられる時間が空においてどのように働くのかは今後の課題であるけれど。
おそらくキリスト教のような不死の神には時間が流れないけど、仏教では神々も時間の中で死ぬ。仏教は不死を求めないし時間の終わり/死を否定しない。とは言え、存在が無いところで時間はどのように流れるのだろうか。良くわからないけれどなんとなく、時間というのは何かが生まれることである。では何が生まれるのだろうか。それは共通認識という共同幻想が生まれるのである(岸田秀の共同幻想論を参照してもらいたい)。
チャンドラキールティの『六十頌如理論注』に「苦の本性は(自性という)生起がないことである」とあって、瓜生津隆真氏の訳注によれば「この生起とは五蘊の流れのことである」とある。つまり五蘊の流れが自性という幻想を生み、世界という共同幻想を育てる。五蘊とは色受想行識のことであるのでその流れ/相続は意識による意味付け/煩悩が行っている。この見解への反論としては、でも現実に目の前にある色(存在)はそのままそこにあるので幻想とは違うじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、色もまた個々人の受想行識の営み/意味付けによって成立しているので、色という共通認識も縁起という共同幻想によって成立しているのである。そしてこれが苦の本質である。
というわけで、覚り・解脱・涅槃には段階の差がある。まず覚りによって無/死を体験し、それによって時間という輪廻の輪を断ち切り、涅槃に於いて再び空と縁起(無と有/時間)を統合する。