以前の記事で、「空を言語化するには、日常生活(縁起)の中でその意味(価値基準)を無化する空をできるだけ多く差し挟むこと、つまり縁起の中で空を生きることによって実現される」と述べたけど、これは世界の意味をもう一度再構築するするというこでもある。通常の世界の意味は、多数の主観による価値づけの総合によって成立しているけど、それを無化するのである。でもこれは、多数の主観を否定して私の価値基準に基づいて世界を再構築する、ということではない。多数の主観による価値づけは固定化してしまいやすいので、その価値づけをそのつど無化して価値づけをしない清浄な意味の世界を現前させる、ということである。そしてこれは私が生きている世界を私の感情によって評価せず世界のありのままを見る、ということでもある。でもこれはとても難しい。私たちは普通、感情によって世界を価値づけて見てしまっていて、それに慣れ捉われそれ以外の見方があることに気づかない。その見方を変えるのが、カントが「コペルニクス的転回」と呼んだのと同じ、「縁起」の世界における「空」である。「世界は空である」ことに気づくことが覚りと呼ばれる。お釈迦様は7年の木食行の苦行の末に山を降り、川のほとりで村娘のスジャータにミルク粥を布施され菩提樹下で覚りを啓いた。それまでは「覚り」というものが実在していると思って探し求めていたけど、その実在は幻でしか無く世界に確定した意味や人間の都合による価値づけは無いこと、つまり「世界は空である」ことに目覚めた。それが覚りである。お釈迦様の源語であるブッダはサンスクリット語で「目覚めた人」という意味であり、夢を見ていたような仮初めに意味づけられた世界を捨て「(縁起を含む)空」に目覚めたのである。
そしてその「空」の意味を伝えるために、かつての五人の修行仲間に鹿野園で「初転法輪」を説いた。それが「苦集滅道」の「四聖諦」である。解り易く縁起の側から、空をお説きになった。「世界は苦しみ(牢獄)だけど、それには原因があり、その苦を滅するための、方法(空という道)がある」という「四聖諦」だ。一番遅い仲間でも一週間で覚りが啓けたらしい。
お釈迦様から遠く離れた現代の私たちが覚りを啓くためには、仏教の本質を生きた現在の第十四世ダライ・ラマ法王のお話しを聴くこと。初期法典である『スッタニパータ』を読むことやそこから派生した中観派の論書を読むこと。信頼できる師について学ぶこと。一点に集中するシャマタ瞑想を続けて、世間によって価値づけられた意味としての世界を捨て、ヴィパシャナー瞑想によってその世界を再構築することが必要である。その上で差異としての意味という清浄な、偏見(価値づけ)を持たない世界観を構築すること、それが「空の言語化」ということである。