奥の細道を求めて

仏を求める旅

勝義諦と世俗諦、あるいは空と縁起について


勝義諦と空が同一なのと同じく、世俗諦と縁起は同一である、と私は考えている。

大乗仏教の二つの大きな柱が空と縁起であり、その価値の間に優劣の差はない、ということに異論がある人はいないだろう。そして勝義諦の内容が空であることも一般に認められている。でも世俗諦と縁起が同一であることはそうではないらしい。

先日チベット仏教哲学の教室で、勝義諦と世俗諦の価値の間には優劣の差があるのですか、と質問したら、「勝義諦の方が優れていて世俗諦の方が劣っている」という答えだった。私はこの解答には不満がある。もし勝義諦が世俗諦よりも優れているなら、何故チャンドラキールティはあれほど二諦説を強調したのだろうか。しかも、ナーガールジュナも空の思想を説いた『根本中論』の序文で「縁起を説きたまえる釈迦牟尼仏陀に礼拝いたします」と述べている。でもチャンドラキールティは同じ単語でも使用する場所によって意味を変えて使うから、先生はその箇所の意味としてそう述べたのかもしれない。でもあるいは、縁起については詳述していないチャンドラキールティの本意も勝義諦と世俗諦の価値の間に優劣の差をつけていたのかもしれない(反論者に対する対抗手段として世俗諦を使っていただけなのかもしれない、その疑念があるので今私はバーヴァヴィヴェーカも参照したいと思っている)。


偈(詩)だけのナーガールジュナの『根本中論』に対して最初の本格的な注釈を著したのがおそらくブッダパーリタであり、その注釈に対して『般若燈論』で異論をとなえたのがバーヴァヴィヴェーカである。そしてチャンドラキールティがブッダパーリタを支持して再び反論を著したのが『プラサンナパダー(明らかな言葉)』で、後世のチベット仏教ではブッダパーリタ、チャンドラキールティの流れを「帰謬論証派」、バーヴァヴィヴェーカの流れを「自立論証派」と名付けて区別している。でもこの区別はインド中観派にはなかったので、私の解釈ではインド中観派の主流は自立論証派だったのだろうと思っている。何故ならその後の中観派と唯識派の論争で中観派が勝利して唯識は中観に入るための準備段階であることを納得させるには、帰謬論証派では無理だろう。何故なら帰謬論証派は自身の立場を持たないから他派の主張を否定することしかできない。でもそれでは他派の主張を自派に導き入れることはできないだろう。唯識を中観に組み込むためには自派の立場を主張しなければならない。


議論を戻して、世俗諦と縁起の関係について述べるなら、課題は世俗諦と縁起が同一であることを論証することにある。でもそれはとても簡単だ。だって世俗諦(言葉)が無ければ今私たちが生活しているこの世界(縁起)は成立していない(例えば法律や民主主義という思想は言葉がなければ成立していない)のだから。世俗は言葉あるいは関係性のことでありそれが縁起である。世俗諦と縁起は言葉という関係性つまり時間の中にだけ成立するものであり、勝義諦と空は無時間にしかない。なので空を言語化するには中観帰謬論証派のように否定形で哲学的に考察するか、あるいは禅宗のように詩で表現するしかない。中観派の根本理念である空と縁起、勝義諦と世俗諦は一対一に対応していてそれぞれに矛盾している。でも、厳密な真理(勝義諦)と曖昧な真理(世俗諦)の統合が仏教の目指すところではないのだろうか。そしてそれが実現したら私と世界はどのように変化するのか、を思考実験してみるのが仏教における瞑想ではないのだろうか。

×

非ログインユーザーとして返信する