奥の細道を求めて

仏を求める旅

インド人が生涯を賭けて求める3つの価値

以下に述べるのは、『マヌ法典』と『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』の一部分、それと私が実際に出会ったインド人たちから受けた印象なので、主に男の意見である。それを踏まえておいてもらった上で、


法、富、愛の3つがそれだ。これらの言葉を単独で厳密に定義するのはとても難しいのだけど、でも共通項は拾えるんじゃないだろうか、そしてそれは〈自由〉ということだと私は思っている。

法はインドのすべての宗教家が求める〈解脱〉という究極的な自由を求める方法論のことだし、富は権力とも結び付き、インドの固定したカースト制の中で低いカーストが自由を得るための方法の一つだ。実際に、シュードラという奴隷階級のある人が金を貯め、王様と同じくらいの発言権を持った事例も過去にはあったらしい。そして愛は妻、家庭、子ども達やペットなどに囲まれて、〈私〉という固まった個人がその中に拡散され広がっていく〈幸せ〉という自由のことだ。

この三つが同時に実現できればそれに越したことはないのだけど、そんなことが出来たひとは一人もいないだろう。法を求める宗教家はその目的以外のすべてを捨てて一人で歩かなくてはいけないし、富を求める商人は法律や倫理なんかに構っていては金を儲けるチャンスを失ってしまう。愛だって、〈永遠に〉愛せる人を見つけるのはとても難しいし、それを実現するのはおそらく不可能だろう。

そこでインド人は自分がこれだと決めた価値を一つ見つけたら、それ以外の価値を捨ててそれだけに真っ直ぐ突き進む。例えば、法を求めるジャイナ教の出家者やサドゥー呼ばれる世を捨てた宗教家は服や食器のような生活必需品でさえ一切持たないし、金を求める商人はたとえ他人を騙してでも自分の利益になりさえすれば平気でウソもつく。一番難しいのが愛という価値で、これは私も未だにこれを求めると主張する人に実際に会ったことはない。それは多分、インドで愛と言うと多くの場合に性愛を意味するらしいので、性風俗が禁止されている現在のインドでは公にしにくい。でも昔書かれた『カーマスートラ』や密教時代のヒンドゥー教寺院のエロティクな壁画を見た人も多いだろう。でもただの性的好奇心からこの本を読むと期待外れだ。これは単なるセックスのハウトゥー本ではなく、交わりという生き物の根源的体験から法という思考の根源に飛躍するための方法論だ。インドではこれは密教として体系化され、今でもチベット密教と日本の天台・真言密教にも残っている。密教は仏教の堕落だと言う人もいるけど、私はそうは思わない。確かにこの方法は危険だし誤解もされやすい。実際に、ツォンカパが現れる前、チベット仏教の混乱期には密教を誤解した僧侶達が女性と交わる事によって解脱できると信じられていて、墓場で僧侶の男女が乱行することもあったらしい。でもツォンカパが偉大なのは、生き物の〈性〉という本質を否定しなかったことだ。痴情のもつれによって混乱を招く現実の男女の交わりは禁止したけど、想像の中での理想的交わりは許した。チベット密教は愛の本質を究めようとする方法論の一つだと私は思っている。では愛の本質とは何か。それは覚り/解脱(究極的な自由)へ導く見取り図のことだ。愛の本質(幸せ)を体験し、その方法論の上でその道を表現したのがマンダラという地図である。そこで愛(主に目的論)と法(主に方法論)は一致する。でもそうなると、富という価値はその中に、どのように位置づけられるだろうか。

私が最近読んだ『雨月物語』という本の最後に、上田秋声は「富(現代用語では資本)とは個人の持ち物ではなく、社会という有機共同体を維持、発展させるための道具である」と書いている。これはつまり富(ある意味での権力)が法と愛(共に民衆の社会のこと、雨月物語は主にその当時のこの状況を描いている)と一体になって共に進歩発展して行くという理想的自由民主主義社会の理念を表明している、と言っていいだろう(当時の封建社会の中でこのような理念を構築できたということが奇跡的だ)。

そしてインドでもこの三つの価値の間に優劣の差はつけない。まったく質の違う、裸の宗教家と裕福な商人と哀れな物乞いも、その間にその人が求める価値の優劣をインド人は認めない。なのでインド人は、みんな平均的価値の中に収まろうとする日本人と違って多様なのだと思う。(カースト制という問題もあるので)それが良いことか悪いことかは別として、私にはこっちの方が好ましい。

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