奥の細道を求めて

仏を求める旅

『鬼滅の刃』と『魔法少女 まどか☆マギカ』、あるいは〈自性の否定〉についての考察

最近話題になっているらしいので、ネットで買って読んでみた。この二つは物語の構造がよく似ていて内容もとてもおもしろい。もしあなたがまだ読んでいないなら、ぜひ読み比べてみて欲しい。私が読んだのは

このコミックスの20巻までと

このシリーズ3巻と

[新編]叛逆の物語3巻。そしてあなたが読んだという前提の上で、


1,物語の構造

簡単に物語の構造を説明すると、どちらも昔ながらの鬼/魔女退治のお話しなのだけど、現代的なのは主人公と鬼/魔女が善と悪とに明確に二分されず、ある時には主人公が鬼/魔女にもなり、鬼/魔女も主人公になる。例えば、『鬼滅』では主人公の「竃門炭治郎」は成長するにつれて鬼に近づき、鬼も死の間際に人に戻る。『まど☆マギ』の「鹿目まどか」も悪魔の卵(親友の睦美ほむら)を心に内包している。具体的には『鬼滅』の副主人公の「禰豆子」は鬼だし、『まど☆マギ』の「睦美ほむら」は魔法少女/魔女/悪魔になる。どちらも主人公の分身なので、善と悪とは表裏一体だ。要するに、善と悪とは固定した概念ではなく、状況によって流動的に変化するという同じ構造をしている(もっとも、これは『鬼滅』ではあまり明確ではないけれど、この考察は2. で)。

この構造は現実の世界の物語とは異なる。これまでの歴史は勝者が記述してきたので、勝者が善であり敗者が悪である、というお話しを作ってきた。でもそれは〈ものごと〉の本質とは違う。SFのパラレルワールドのように、勝者も敗者になり敗者も勝者になる世界は成立する。これまでの歴史の物語よりも今の日本のマンガの方が、より〈ものごと〉の本質に近づいていると私は思う。物語あるいは神話と言えば、インド叙事詩の『マハーバーラタ』も日本の『源氏物語』もこの構造は同じだ。二つとも本居宣長が言った「もののあはれ」を本質にしている。果てしない時間の中でこの「私」はやがて死滅する。この〈もの〉としての「私」あるいは「国」「世界」「宇宙」も滅びるだろう。でも、〈こと〉としての関係性も滅びてしまうのだろうか。私はそうは思わない。『マハーバーラタ』や『源氏物語』が今でも読み継がれているように、〈私〉と〈あなた〉あるいは〈あなた達〉とで成立した世界は滅びることはないと信じている。『鬼滅』も『まど☆マギ』も、そのような世界観を表明した作品なのではないのだろうか。


2,生き物を食う、ということ

鬼も魔女も人を捕食する。『羊達の沈黙』のハンニバル・レクターも人を捕食する。レクター教授は人ではないのかもしれない(本人は「私は神だ」と言っていたかもしれない。一神教の神も善悪の埒外にいる)が、人も人以外の生き物を捕食する。なら、鬼も魔女も人も同じだ。生きている〈もの〉を食うのだからね。そこには善悪の境はない。人は食うのだから人も食われたって仕方ない。『鬼滅』で「なぜ鬼は人を食ってはいけないのか」という基本的な問いに炭治郎は答えられない。食うものと食われるものとは善悪の関係にあるのではなく、立場の違いでしかないからだ。

そしてこの構造は新型コロナウィルスが蔓延している今の世界の状況にも当てはまると思う。インドの道には下痢をした牛の糞が散らばっていて歩くのに苦労する。でもそれが多くなり過ぎると、誰かが掃除しておいてくれる。下痢便でなければ、牛の糞は乾燥させるといい燃料になって人の役にも立つ。同じように、コロナウィルスとも共生できないのだろうか。敵は全て滅ぼしてしまえばいい、とは私は思わない。それは〈無〉の世界であり、〈縁起/空〉の世界とは違う。食うものと食われるものとが共に生きながら世界を構築するべきなのではないのだろうか。

なので、私は肉食を否定しない。お釈迦様が最後に召し上がっのは、傷んだ豚肉だったのだろうと思っている。


3.〈記憶〉について

『鬼滅』では〈記憶〉は中心的なテーマにはなっていないけど、それが描かれているのは「炭治郎」と「禰豆子」が捕まった時の柱合裁判での「時透無一郎」のセリフだ。その時、緊迫した状況の中で記憶のない無一郎だけが空を見上げて「何だっけあの雲の形 何て言うんだっけ」と関係のないことを無関心に考えている。これをギャグと捉える人もいるかもしれないが、それは違う。無一郎は記憶を失ったために、この世界の状況から切り離されてしまっているのだ。自らが望んでいない虚無主義者と言っていいだろう。

それに対し『まど☆マギ』では〈記憶〉が中心のテーマになっている。時間旅行ができる魔法少女の「ほむら」は人間である「まどか」を救うために、過去の記憶を拠り所にして何度も時間を遡って試行錯誤を繰り返すけど、やはり「まどか」を救うことはできなかった。なので、『叛逆の物語』において「ほむら」はその試行錯誤の記憶の戦略を逆手に取った。「ほむら」は時間旅行の魔力を失った代わりに記憶の魔力を手に入れて、「まどか」という外部の記憶を自身の内部の記憶/夢の世界に取り込んでしまったのだ。そうすることによって、この望まない現実の世界を夢の世界に変換してしまった。でも「ほむら」は現実の、まどかのもう一人の親友である「さやか」も先輩の「マミ」も異端児の「杏子」もその世界の中に取り込んでしまったので、やがていつか平穏なバランスは崩れるだろう。

インドの神話の中には、宇宙の全歴史はブラフマー神が見る一夜の夢だ、というのがある。「まどか」は解脱し、「ほむら」は自身が主人公になっている夢の中だけでブラフマーになった、と言えるのかもしれない。

私は思うのだけれど、私が私であること(私の自性)、は私と他者との〈記憶〉に依存している。 〈私〉というものの連続した記憶を〈あなた〉の記憶が承認してくれているので、私は私であることができるのだ。もしあなたが無一郎のように記憶を失って、そして誰もあなたを記憶していなくて、この先もまたあなたを承認してくれないとしたら、あなたはあなたである、というアイデンティティを保持することはできない。そして記憶は文脈としてのイメージによって保持されている。3才以前の子供がアイデンティティを持っていないのは、まだ文脈としての言葉を獲得していないからだ。〈自性〉が成立するためには文脈としての言葉を必要とする。そして〈自性の否定〉を説明するためにもやはり文脈としての言葉が必要だ。


4.〈自性の否定〉について

自性を否定したら言葉は成立しない。仏教で「自性を否定する」あるいは「一切の執着を捨てる」と言い、しかもそれが〈縁起〉であると主張するということは、このような言葉の両義性をどうやったら止揚させられるのかという問題の提起である、と私は思う。この2つのマンガではまだ「自性を否定する」ところまでは行ってないけれど、自性の不確定さは描かれている。もっとも、自性を否定してしまったら物語はこの後、進行しなくなってしまうのだろうけど。


5.2つのマンガの今後の展開についての期待

『鬼滅』には、鬼舞辻無惨が萩尾望都の『ポーの一族』のエドガーのような存在として復活して欲しい。永遠を生きなければならないエドガーの悲劇を鬼舞辻無惨が引き継ぎ、ただ素直で楽観的な炭治郎と対峙する。そもそも竃門炭治郎と鬼舞辻無惨は表裏一体なのだから、そこで〈自性の否定〉までを紡ぐ物語を創作して欲しい。

『まど☆マギ』には、運命の悲劇としてのシェークスピアの『マクベス』を描いて欲しい。ほむらはマクベスだ。逃れられない運命を背負い、破綻するほむらの悲劇は、自己完結的なブラフマー神とは違い、〈縁起〉の理を表現できると思う。

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