奥の細道を求めて

仏を求める旅

チベット語の難しさについて

チベット語は文法が日本語と似ているので、読むことは比較的簡単に入ることができる。でも、発音がとても難しい。

日本語は特殊な言語らしくて、他の言語と比べると、音の数がきわめて少ないらしい。日本語の場合、基本的には子音・母音の組み合わせだけで音が構成されていて、私が数えたら100音〜140音くらいだった。しかし大部分の言語では、子音・母音・子音という組み合わせで音が構成されていて、英語の場合は母音だけで13~16音くらいあるらしく、しかもそれぞれに子音が複数組み合わされるのだから、音の種類は数え切れないくらいに多い。日本人が英語を聴き取り難いのは、日本語の音だけに慣れている日本人が、聴き分けられる音の数が少ないせいだと思う。そして日本語はかな文字だけで書かれると、とても読みにくいのも、音だけで区別するのが難しいので、漢字でそれを補正しているからなのだ。日本人が会話をする場合には、多くの同音異義語を文脈によって解釈している。つまり、単語の意味を前後の文脈によって補正している。なので、日本人は文脈を読む、あるいは空気を読む、ことが得意になったのだと思う。この「文脈」「空気」が〈縁起〉である。単語、とくに名詞は〈ものごと〉を固定/実在化してしまうが、文脈がそれを流動化し豊かさを生み出す。この豊かさが〈縁起〉ということなのだ。

外国人が「空気を読め」ないのは音の数が多いからなんじゃないだろうか。主に欧米人が日本語の「気」という概念を理解できないのも、そのへんの事情の反映なのかもしれない。そんな日本語の特性をうまく使っているのが夏目漱石や川端康成だ。「明暗」や「山の音」を外国語で読んで理解できるとは思えない。

チベット語の音も、子音・母音・子音という組み合わせで構成されていて、その音が何種類あるのか私には分からない。でも文字の数から類推すると日本語より多いのは確実だ。日本人には区別のできない音も違う文字で表記しているらしい。そのせいだと思うのだけど、チベット語の単語には母音の音数が少ない。せいぜい1音か2音くらいだ。チベット人は多くの音素を聴き分けられるので、それで済んでいるんじゃないだろうか。

以前テレビで面白い実験を見た事がある。まだ立てないくらいの赤ちゃんにヒンディー語の「त」と「ट」を聞かせて、それが区別できるかどうかという実験だ。この2つの違いは巻き舌であるかどうかという違いらしいのだけど、私にはどちらも全く同じ「タ」にしか聞こえない。でも生まれて間もない赤ちゃん達は見事に聴き分けた。母国語を習得する以前の人間は皆このような能力を持っているらしい。それが成長し、言葉を話せるようになるにつれてこの能力は弱くなっていくのだそうだ。言葉を話せるようになればもう必要がなくなってしまうからなのだろう。言語の天才と呼ばれるような人達は、おそらくこの能力を終生持ち続けているのだろう。

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