奥の細道を求めて

仏を求める旅

冬休みと料理と仏教修行

12月14日にダラムサラのライブラリーでの一年の授業が終わった。


この写真はチベット語クラスの終了記念写真で、中央のグレーのダウンコートを着た女性が先生だ。とても熱心で教え方も上手く、質問すればこちらが納得できるまで丁寧に教えてくれた。なので来年は同じ先生のワンランク上の授業を受けてみたいと思っている。

というわけで来年の3月に新学期が始まるまでの間、長い休みに入ってしまった。ヒマができるとやることは美味いものを食うことなので、ダラムサラで手に入る食材や調味料でいろいろ試している。最近ハマっているのが鯖缶料理で、日本では一度も鯖缶なんて使ったことがなかったのにここダラムサラでは三日に一度くらい使っている。もともと私は魚の臭いが苦手なので魚料理は作らなかったのだけど、インドでは肉を手に入れにくいので、その代わりに鯖缶を使っている。魚の臭みを抜く方法はYouTubeで調べると色々あって、酒と生姜がその代表的なものであるらしい。実際使ってみると酒が最も効果的だった。アルコールが飛ぶ時に魚の臭みも一緒に連れて行ってくれるらしいので、たぶん何かの化学的な反応なのだろう。最初に作ったのが前にも紹介した鯖缶トマトカレーだけど、今回は野菜カレーで、鯖缶、玉葱、ピーマン、茄子を煮込んでガラムマサラで味付けした。


これもとても美味い。鯖の臭みのない旨味と玉葱の甘さとピーマンのシャキシャキと茄子のトロトロ具合が絶妙に合う。とは言え前回のトマトカレーには敵わなかった。たぶん今回はトマトを炒めて入れなかったので旨味のコクが足りなかったのだろう。インドカレーには味のベースとして炒めた玉葱とトマトが必須だということを知った。味のベースを作った上で香辛料で味付けする、というのは和食で出汁をとってから醤油や味噌で味付けする過程と同じなので理解しやすい。昆布出汁と鰹出汁の相乗効果のようなものが玉葱とトマトにもあるのだろう。


次に作ったのは鯖のそぼろご飯だ。鯖缶を煮詰めてそぼろにしそこにご飯を混ぜて、上に炒り卵とキュウリ(みたいなもの)の塩揉みを乗せ大根の葉の炒め物を添えてみた。大根の葉は日本では切り落とされてしまうけど、インドでは付いたまま売られているので嬉しい。これだけをご飯に混ぜて青菜ご飯にしても美味いだろう。大根の葉はすぐ萎れてしまうから、新鮮なものを見つけた時に試したい。鯖と卵の旨味にキュウリの爽やかさが加わってとても美味い。鯖缶と一緒にネギも炒めたらもっと美味かったかもしれないので、次は試してみたい。


と思って翌日余った分をマギーのチキンストック(スープの素のようなものらしい)で煮てネギを散らしてみたら、予想通りとても美味い。付け合わせのキュウリ(みたいなもの)の漬物とも良く合っている。ということで、数日後に新鮮な大根を見つけたのでブリ大根ならぬサバ缶大根を作ってみた。


やはり美味い。翌日青菜ご飯も作ったらこれも絶品だった。


大根そのものよりも大根葉の方が美味いくらいだ。一番最近作ったのが鯖缶の南蛮漬けで


そこそこ美味いけど初めて作ったから反省点も多い。もっと美味くできたはずだと思うので、次はまた良く考えてから試したい。


そして料理のこのような試行錯誤は仏教の修行と同じだと私は考えている。レシピ/教えを聞き(聞)、自分なりにどうしてこれが美味いのかの仮説を立てて(思)、実際に料理(修/瞑想)してみる。上手く行かなければ思/解釈の仕方を変えてまたやって(修して)みる。それでも上手く行かなければ別の教えを参照(聞)して改善のヒントを探す(仏教では先生を変えることは否定的なことではなく自身の成長のあかしと捉えられているので先生もお祝いしてくれる)。そのように長い時間をかけて料理は美味くなり修行は完成に近づく。

でもこの意見には反論もあると思う。料理の場合は実際に食べてみて美味いか不味いかが判断できるけど、瞑想で思の正誤をどうやって判断するのか、という反論だ。

以下に述べるのは私の個人的な考えなのでその上で、瞑想にはいろいろな方法があってその一つが思考実験という方法だ。思考実験は理論物理学で使われる方法で、実際に実験できないような状況で仮想的な状況を設定してそこで仮説が成立するかどうかを検証する、という方法だ。物理学の場合は前提(観測された事実)と思考実験の結果の間に数学(論理)的な矛盾が有るか無いかで判定するけど、仏教の場合はその状況が空というあり方に矛盾しないかどうかで判定する。仏教の基本理念の一つが空なのでそれを判定基準にする。縁起は時間的に変化し種々雑多であり間違った縁起の組み方も多いので、それを変化しない空を基準にして選別する必要がある。仏教では空が縁起の判定基準になる。ナーガールジュナやチャンドラキールティが空を強調するのはこのせいなのだろう。


蛇足だけど、禅問答は何を言っているのか解らない、という不満をよく聞く。質問というのは一般的に現実の存在の有無や論理的な整合性の根拠を問うのだけど、禅問答ではその縁起に関する質問が空とどのようにしたら折り合えるのか、を答えている。例えば「父母未生以前汝本来面目」という禅の公案がある。この意味は、あなたの父母が生まれる前のあなた自身とは何か、という問いだ。常識的に考えるなら、私の種さえ無いのだから答えは無になるだろう。でも仏教では無を否定するのでこの答えも否定される。そこに何らかの関係性/縁起を見つけないといけない。そこである人は「池に飛び込んだ蛙の水の音」と答えた。つまり、本来の私とは水に飛び込んだ蛙の水の音のようなものだ、という意味でそこには存在がないにも係わらず無でもない。つまり私という本体は存在せず関係性の中の結び目である、という意味だ。縁起を存在の有無や論理の整合性(チベット仏教では違うけど)によって評価するするのではなく、空との折り合いの良し悪しで評価する。でも、それでは空を悟っていなければ判断できないじゃないか、という反論もあると思う。でもそんなことはない。空は実在と無の両方を否定することだけだ。多くの場合私たちは目の前にあるものを現実に実在するものだと思い込んでしまうけど、そのような思い込みを捨てるだけでいい。常識という枷を取り払い、しかも無に落ちないというあり方が空ということだ。そのように考えれば禅問答は訳の解らないものではなくなる。

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