奥の細道を求めて

仏を求める旅

神秘主義と井筒俊彦


私が自由に使える言葉は日本語しかない。でも世界にはことばの天才と呼ばれている人たちが多くいる。その一人が『コーラン』を和訳した井筒俊彦という人だ。世界的に有名な哲学者であり宗教学者でもある。30ヶ国語を自由に使うことができたらしい。とても信じられない話だ。

噂では各国の大使館員を自宅に呼んで教えてもらったのだ、と言う人もいるけど、本人は人に頼って言葉を学んだことはないと言っているので、おそらく直に教えてもらったのは学生時代とアラビア語の先生の数人くらいであとは独学だろう。その著書のほとんどを英語で書いたので、当初は日本よりも西洋での評価が高かった。この点は鈴木大拙と似ている。

私はもちろんそんな天才ではないし、しかも怠け者なので、せっかくインドにいるというのにいつまでたっても英語の日常会話でさえ満足に話す事ができないのだけれど。


さて、井筒俊彦が書いた本の多くは世界中の宗教の神秘主義をテーマにしている。神秘主義は多くの宗教にあり、イスラム教では主流ではないけどスーフィズムという宗派がそれらしい。インドのバラモン教にはそれとは違って主流の一つである梵我一如を唱えたヴェーダーンタ学派があるし、中国にも道教というこれも主流の老荘思想がある。キリスト教ではこの思想は神の絶対性を侵害するものとして異端扱いされるらしいけど、伝統的神学でも人であるキリストと神は一体だと認めるのだから、やはりそれを内に含んでいるんじゃないだろうか。

では仏教はどうだろう。仏教は神秘主義か。

一般的には、密教が仏教における神秘主義だと言われるだろうけど、この問題を論じる前にまず神秘主義という思想を明確に定義しておかなくてはいけない。広辞苑によれば、「神・絶対者・存在そのものなど究極の実在になんらかの仕方で帰一融合できるという哲学・宗教上の立場」と定義されている。仏教は一般にそのような「究極の実在」を認めないので、この定義からすれば仏教は神秘主義ではないと言われるだろう。でもはたしてそうだろうか。私はそうは思わない。大乗仏教の柱の一つである〈空〉という体験は神秘主義だと私は考えている。なぜなら、空は日常の現実を変容させる体験であるからだ。広辞苑の定義の間違いは、神秘主義の本質を「究極の実在に帰一融合する」と捉えた点にある。それは「究極の体験に帰一融合すること」と定義しなければいけなかった。

井筒俊彦は岩波新書の『イスラーム哲学の原像』という本の中で、神秘主義を厳密に定義することは不可能だと言っているけど、通俗的な心霊現象やオカルティズムと区別するために10ページくらいを割いてスーフィズムの側からそれについて綿密に述べている。それを少し乱暴に私なりに要約すると、


1.いわゆる現実、あるいはリアリティは多層的構造を持っている。存在世界が多層的であるということは、私たちの普段の経験世界は現実の表層にしか過ぎないのであって、その奥に別の現実が潜んでいる、ということだ。そしてそれを捉える意識もまた多層的であり、現実と意識の層は1対1に対応している。とは言え、現実と意識は別なものではない。

2.そして意識と現実とが別のものではなく、1対1の対応関係を持つ1つの多層/複合的構造体であるなら、まず意識の深い層を開かなければ現実の深い層も現れない。でも日常の意識は変化し続ける日常の表層的現実を追いかけるだけに忙しい。

3.なのでそのためには、組織的方法的な特別な修行によって意識のあり方を変えなくてはいけない。禅宗の座禅、ヒンドゥー教のヨーガ、宋代儒者の静坐、『荘子』の坐忘など、これらは皆細部において違っているだけで、その本質はすべて意識の深層を開くための方法である。そしてこのような方法論を持っている宗教/哲学的立場を〈神秘主義〉と呼ぶ。


と私は解釈する。そうであるなら、大乗仏教の根本である〈空〉もまた、より深い体験としての意識の改変のことなのだから、仏教の本質も井筒俊彦の言う意味での神秘主義の一つであることは明らかだろう。

でも大乗仏教では一般的に、空という体験を体系化して述べることはしない。特に禅宗では「空は言語化できないのでそれを直接体験するしか方法はない」としている。もともと、龍樹も空という概念を一定のカテゴリーを持った〈真理〉として積極的に主張したわけではなく、絶対的真理が実在すると主張する他学派を論駁するための方法論として使い、その過程で仮そめの存在を意味として固定化してしまう言葉も否定したので、その解釈もいわれのないものではない。でも禅宗が主張するその考え方では私は、空と縁起はあくまでも違ったものになってしまいほんとうに一つのものにすることはできない、だろうと思っている。龍樹が『中論』を言葉で書いたように、私も空を言語化してみたい。

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