奥の細道を求めて

仏を求める旅

『空』と『空性』について


私が妄語を語らぬように釈迦牟尼仏ならびに龍樹菩薩に礼拝いたします


『空』は仏教における一大問題だが、それだけ取り上げてみてもあんまり取り留めがないので、『空性』という言葉と対にして考えてみたい。日本語あるいは漢語では両者はあまり違いを感じないが、サンスクリット語とチベット語では空をそれぞれシューンヤ、トンパと言うのに対し、空性をシューンヤター、トンパニと言う。空は形容詞あるいは動詞であるのに対して空性は名詞である。ここが決定的に違う点だと私は考えている。名詞は概念化した対象であるのに対し、形容詞あるいは動詞は自己の体験である。名詞では主客が分離しているが、形容詞あるいは動詞では主客は未分化だ。例えば、美しい花を見て「ああ美しい花だ」と思うのは花を名詞化し、それ以外の花と差異化しているのであって、その花そのものを体験しているのではない。原初的な体験には主客はない。私が花なのか花が私なのかも問題にはならない。『空』と『空性』の違いもそのようなものだ。

チベットの文献に「空性を見る者は癒し難い」とあるのは、この意味であると私は考えている。

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