奥の細道を求めて

仏を求める旅

私にとって仏教とは何か

私が抱えている問題は「私とは何か」「世界はどのように成立しているのか」を探究することにあります。「私は存在している」「私は私である」「A=A」という自明な言葉には何か違和感というか不快感をずっと感じていました。それをうまく説明することはできないのですが、例えば、パジャマを着たまま学校へ来てしまったような感じとでも言ったらいいでしょうか。実際にそんな夢をよく見ます。なにかいたたまれないような感じ、すこしでも動いたらみんなにバレてしまうんじゃないかといった不安感で息もできず、みんな普通でいられるのが不思議でたまらない。もしかしたらみんな機械仕掛けのロボットでプログラミングされたままに動いているだけなのかもしれないと思えてきます。そうすると私もやはりロボットで、この手がこんな風に動くのも不思議でたまらなくなる。そのような感覚は外界にも及び現実感が稀薄になり、モノの重さが失われ、世界は乱雑な線の集合でしかなくなり、モノがそこにあるという実感もなくなって、今までの世界の自明性はすべて思い込みでしかなかったのだと気づきます。その気づきはやがて確信に変わるのですがこれは少し困った状況でもあります。いままで自分が立っていた自明性という地盤が失われてしまったのですから、なんだか宙ぶらりんになってしまいました。

これはただの考え過ぎでしょうか。でもそう確信してしまったのだから仕方ない。そんな時に、諸行無常、諸法無我という言葉に出会いました。作られたものはいつか壊れ、永遠と思われるものもその根拠は何もない、という意味です。この場合の法は真理、我はその根拠の意味でバラモン教のブラフマンとアートマンに対する批判であると私は解釈しています。「この私もやがて死に、この宇宙もいつか滅び、絶対的な真理などというものは存在しない」この考え方はしっくりきました。宙ぶらりんでいいと思えたからです。

上記二句と似た言葉に、不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去というのがあります。2つづつ対になっていてそれぞれ反対概念を否定しています。これは戯論寂滅という言葉とセットで考えると、世界を概念化して捉えること自体の否定です。価値の基準だけではなく、その前提である概念化まで否定しています。つまり、特定の立場に立ってそこから世界を解釈するのではなく、立場を持たず一切の先入観や固定観念を排除して世界をありのままに見ようとする態度です。これは別の言葉で言えば、色即是空、空即是色になります。色を概念化しないから空であり空であるから色がありのままの色として現れる、と私は解釈しています。宙ぶらりんでなくてはいけない、という態度です。でもこれは仏教全体に容認された考え方ではなく、中観派と呼ばれている人達の考え方です。中観派が今生きているのはチベット仏教だけなので私が今勉強しているのもチベット仏教です。

とはいえ、机上の勉強だけで菩提や涅槃を得られるはずはないので、そのような境地に達しているお方に直接お会いして教えを請いたい。でもそのためにはこちらもそれなりの準備をしておかなくてはいけない、というわけで私は今ここにこうしているわけです。

ドラえもんがいたらお願いして2500年前のインドに連れて行ってもらうんだけどね。

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