奥の細道を求めて

仏を求める旅

言葉とは何か 2.


次に唯識派の言語観について考えてみたい。

唯識派では「識の本質は現象をとどめることにある」と考えられている(私も意識の本質は刻々に移り変わる現象を留めるものだと考えている)。そして識とはコトバのことだ。

唯識派では「識」の構造をアーダナ識(分別意識)、マナ識(自意識)、アーラヤ識(無意識)の三層に分ける。そして世界の構造を「三性説」として「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」の三つに分け、そしてその識の構造を世界の三性の在り方の相と対比する。最初のアーダナ識は比較的に分かりやすく遍計所執性の事であり、「偏(かたよ)って計って(分別して)理解された所(世界)に執着してしまうこころ(煩悩)」のことである。

それに対し、依他起性とマナ識、円成実性とアーラヤ識との関係は難しい。

依他起性は一般に仏教で言われる「縁起」のことであると解釈されていて、時間の中で原因と結果が相伴う、という因果関係のことでもある。でもこの解釈は上座部仏教でのものなので、中観派ではこれを時間的な前後関係とは捉えず、同時に成立している相互依存関係として解釈している。例えば、「親子」という言葉は親から生まれたから子である、という解釈は上座部的なものであり、中観派ではそのような時間(因果)関係よりも、親は子がいるから親なのであり、子は親がいるから子と呼ばれる、といったように、原因と結果の間の連続的な因果関係ではなく、無時間的な相互依存関係として捉えている。これは唯識派でも同じだ。ではなぜ唯識派はそれを縁起とは呼ばずに依他起性と呼んだのだろうか。これは難しい問題で、まして依他起性とマナ識との関係はさらに難しい。

なので先に円成実性とアーラヤ識との関係について考えたい。円成実性とはバラモン教で言われる〈解脱〉であり、仏教で言われる〈涅槃〉である。では円成実性と解脱と涅槃の違いはどこにあるのだろうか。以下に述べるのは私の感想だ。

〈解脱〉や〈涅槃〉が死の匂いがするのに対し、唯識派の言う〈円成実性〉にはその匂いがない。それは円成実性が縁起であるからだ。一般にヒンドゥー教でも仏教でも不浄を嫌い、浄(清らかさ)を求める。(ゴミだらけのインドの浄とは何かという問題はさておいて)アーラヤ識とは無始劫来の善悪の業(行い/言葉)の結果の集積所なので(そして今現在私たちは無明の中にいるのだから)、本来は穢れているものだ。その根本の穢れがどのようにして円成実性に転化するのだろうか。唯識派の無着(アサンガ)は『聚大乗論』の中で、そのような穢れたアーラヤ識だからこそ(下線は筆者による強調)、それを自覚した時に転化する、と述べている。これが大乗仏教に特有の、龍樹が示した「煩悩即涅槃」という言葉の解説だと私は思っている(親鸞の言う「僧でもあり俗でもある」もこれと同じ意味だ)。

この言葉は決して、煩悩がそのまま涅槃である、という意味ではない。そこには越えられない深い溝がある。その溝を越えた時に初めて「煩悩即涅槃」と言えるのだと思う。

そしてマナ識と依他起性との関係だ。これはとても難しくて、今の私には、とりあえずこれは〈私〉が〈あなた〉であるということである、と解釈している。〈私〉と〈あなた〉との違いはどこにあるのだろうか。それはどこにもなく、同時に常にどこにでもある。二元論で言えば、有でもあり無でもある。これは論理的言語では矛盾しているけど、無時間/相互依存的なこころの言語(中観派と唯識派を統合したコトバ?)では矛盾していない。ウィトゲンシュタン(私はまだ『論理哲学論考』を全部読んでいないけど)の根本の主張は、厳密な論理的言語では〈今生きられている時間〉(ミンコフスキーやベルグソンやニーチェの主張する時間)を記述できない、とした点にあるのじゃないだろうか。でも、生きられている時間を論理学内に定位すること(私はその試みの一つがヘーゲルの弁証法だと思っているけど)は不可能なのだろうか。


さてでは最後に、数学をモデルにして考えてみたい(とは言ってももちろん私は数学に詳しくはないので、以下に述べるのは素人の思いつきで、比喩でしかないのだけど)。

数学と論理学との違いは〈存在〉を認めるか否かにあるんじゃないだろうか。論理学で使う記号はあくまでも代替可能な差異としての記号(あるいは論理式、演算記号をどう解釈したらいいのかは難しいけど)でしかないのに対し、数学の 0, 1, π, √-1 などの数は、認めなくてはいけないそこに成立している〈存在〉として捉えられている。虚数√-1 は現実には存在しない数だけど、数学内では成立/存在している数だ。そのような数で構成されている虚数空間が、仏教での縁起世界/空ということではないのだろうか。数学の実数空間が仏教での世俗であるのに対し、実数と虚数を統合した空間が縁起(勝義諦と世俗諦との統合)という世界なのではないのだろうか。

虚数空間は複素数として、一般に A+Bi という形式で表現される。i が√-1という数の記号で、AとBは具体的な数の代替物としての記号(実数)だ。Aとは具体的な存在であり、そこにBという存在が i 化されて付け加わる。日常言語で言うと、たとえば「月」という現実存在に虚数化された「りんご/岩」が付け加わって縁起としての現実は成立している、と考えてみる。つまり、複素数とは存在〈モノ〉と空〈コト〉との複合体だと。そしてそれが縁起ということじゃないだろうか。

そう考えれば、以前の記事で紹介した『ピレネーの城』という絵も、もう一つの現実であると理解できる。



とはいえ、これで私が実際にコトバをどう使ったらいいのか、という最初の問題はまだサッパリ解明されていない。でも、その糸口は見つけたような気がする。果てしなく遠い道程だと思うけど、試行錯誤を繰り返して行けば、いずれ到達できるのだろうか。

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