奥の細道を求めて

仏を求める旅

英語、日本語、チベット語の文法について

最初に、まず英語では主語は動作を行う主体のことであり動詞は主体のあり方の確定のことで最低限の文章は S+V で構成されるけど、日本語やチベット語では必ずしもそうとは限らない。三上章という日本語文法学者の本


を読んで私が考えたことを以下に述べたい。

英語の文章では主語と動詞が不可欠だけど、日本語やチベット語ではそれらがなくても文章は成立する。日本語で主語がない場合には、三上章以前の日本語文法では主語が省略されていると解釈されていたらしいけどそれは間違いだ。日本語やチベット語は主語という主体を必要としない言語である。何故そうなのかと言えば、日本語やチベット語では Subject という概念よりも Perspective という概念を優先しているからだと思う。


Perspective とはどのような視点でその事象を捉えるのか、という問題だ。英語では絶対的な主体/視点を設定するのに対して、日本語やチベット語では相対的な状況(Perspective あるいは theme  focusを設定する。例えば、この本の題名でもある「象は鼻が長い」という文章では何が主語がなのかという未解決の有名な問題がある(普通この文章は二重主語として解釈されているらしい)けど、多くの解釈の中で私が一番納得できるのはこの作者の、日本語には主語は必要ない、という学説だ。誤解が多いと思うけど、三上章は英語と日本語の主語は性質が違う、ということを言いたかったのだと思う。

私もチベット語を勉強していて思うのは、チベット語には主格と対格を表す格助詞がなくて最初の内は混乱したのだけど、それを文法的に解明したのが Perspective あるいは theme  focus という概念だ。さっきの「象は鼻が長い」という用例では初めに象という大きな theme を設定しておいて、そこから鼻にfocus を当てた、と考えれば納得がいく。つまり私が言いたいのは英語文法の Subject という概念はチベット語文法の Perspective という概念によって代替が可能だということだ。これは絶対的な実在と可変的な状況/縁起と言い換えることもできるし、そしてそれはまた神と人と言い換えることも可能だ。一神教のキリスト教やイスラム教では唯一絶対の神がいてそれが全てを支配していると考える。でも多分、宗教よりも言葉の成立の方が早いので宗教が言葉に影響を与えたとは考え難いけど、その後の宗教と言葉の展開の中で複数の神を認めない一神教と主語を省略しない英語文法は相性が良かったのだろうと思う。さて主語という概念についてはこのくらいにして、次に動詞について考察しよう。


名詞よりも動詞の方が難しいという事は外国語を勉強した人には常識だろう。基本的に名詞は外界の事物に対応しているけど、動詞はそうではない。動詞は変化する状況を記述するために機能するので、より複雑になるのはあらゆる言語において同じだ。とくにサンスクリット語のような古代語の動詞体系を理解するのはとても難しい。でもここでも Perspective という概念は有効、というかそもそもこの概念は英語の be 動詞に相当するチベット語の動詞体系を説明するために採用されたので、前述のようなPerspective  theme  focus という主語に関する説明として援用したのは私の応用なのだからこっちが本筋なのだけどね。

英語の be 動詞は人称や数によって変化するけどチベット語の Perspective という概念は英語の be 動詞に相当する ཡོད  འདུག を説明するために採用された概念だ。基本的には ཡོད は主語が一人称の場合でありའདུག はニ、三人称の場合なのだけど、それは状況によって可変的であり英語の am,are,is のような固定した用法ではない。この概念は一般的にはその動詞が personal(本人の推測、意思)な視点からの発話なのか、あるいは impersonal(客観な事実) な視点からなのかを区別するために用いられる。例えば「このお茶は熱い」という場合、自分が作ったり運んだりした時に熱そうだなと思う時には ཡོད を使うけど自分が実際に飲んで熱ちと実感した時には འདུག を使う。つまり一人称であってもその事態が推測であれば ཡོད であるし、体験した事なら འདུག だ。そしてそれだけではなく、そこには本人の意思が介入しているかどうかの区別もある。例えば「私はチベット語の授業に行く」ならそれは私の意思なのだから ཡོདなのだけど「私は病気になった」ならそれは私の意思ではないのだから འདུག を使う。最初私はこの区別は主観的な事柄を述べる場合と客観的な事柄を述べる事柄とで区別されていると思ったのだけど、それは間違っていた。例えば「私は悲しい」という時には འདུག を使う。それは主観的なことなのだけど感情は私の意思によってコントロールできないからものなのだからたとえ主観的なことであったとしてもその時には འདུག だ。ということはつまりチベット語においては動詞も心/状況によって変化するということである。

次に日本語の場合「この花は白い」と言う時には動詞は必要ない。これはつまり日本語では動詞も消去できるということだ。英語とは違い、日本語やチベット語に確定的な主語は存在しないのと同じように確定的な動詞も存在しない。つまり文脈という縁起の中で意味が確定する言語であるということだ。


ということでとりあえずの結論にたどり着いたのだけど、もちろんこれは極端な解釈であり、口語文法と文語文法との違いもあると思うけど言語はその用法を明確に規定できるものではなく、実際の運用では多彩なグラデーションがあるということは承知しているのだけれどね。でもポール・ヴァレリが言ったように「極端でなければ価値が無いし、中庸でなければ運用できない」ということなのでここでは敢えて極論を提示してみた。

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