奥の細道を求めて

仏を求める旅

空の言語化の試み #4

寒烏

今回は日常言語の多義性という側面から考えてみたい。


鳥や狼や猿のような群れで生活する動物が、狩や防衛のために意味を伝えるだけなら、鳴き声/記号(言葉)の意味は数学の変数の定義のように一義に単純であった方が良い。けれど人の言葉はそうではなく多義的である。これは何故なのだろうか。

それは各人の理想が異なっているからである。人は理想を求める。そしてその理想は多様だ。ある人は金を稼ぐことでトップに立つことを、別の人は金よりも幸せな家庭を築くことを優先するし、真理を求めるためには金も名誉もすべてを犠牲にしてしまう人もいる。

単語とは世界の意味を区切る境界のことなので、理想が違えばその区切り方も異なる。そうなると相互理解は難しい。でも人は他者を理解したいと思うのでそのために言葉を使う。その理想の多様性の統合の試みが人の言葉の多義性を生む。

例えば仏教用語の法(ダルマ)という言葉を考えてみたい。ダルマはバラモン教(ヴェーダ)の昔から最も重要な概念の一つとして扱われてきた。古くは主に規律、道徳、人が集団生活を営む上で守らなくてはいけない規範という意味で使われてきたのだけど、仏教やジャイナ教、サンジャヤの懐疑論などの新興宗教が台頭して来るとそこにさらに多くの意味付けがされるようになった。絶対的真理、相対的真理、自性、空と縁起、言葉(文脈)、現象、存在の構成要素などなどの意味が追加され(『仏教・インド思想辞典』から)明確な定義はできなくなってしまった。けど『倶舎論』ではdharmaの原義に基づいて 「それ自身を保持するから法である」とされている。この意味はおそらく、そのものの存在意義を保つもの、ということではないだろうか。つまりアイデンティティを保つもののことである。

現在私たちが本を読む時も、私たちはその作者の意図/理想を読み解こうとする。そして(それが優れた本であるなら)著者の理想が私の理想と同じであればその本は私にとって解りやすいおもしろい本であり、違う理想を求めているなら解らないつまらない本だと思ってしまう。でもそれは読者が求めている理想が著者の理想と同じか違うということだけで読者と著者の価値観の差でしかなく、現実そのものに価値付けはない。でも、現実そのものとは何なのだろうか。チベット仏教では思い込みのないありのままの世界/空が現実であると説くけど、かりそめ/無常の世界を意味でしか捉えられない人間にそんなことは可能なのだろうか。物理学が厳密な数学を方法論(言葉)として使うように、空から縁起への通り道/方法論が何かある筈だ。何故なら詩が成立しているのだから、空から言葉を紡ぐ詩的論理のようなものがあるに違いない。私たちが体験している現実は縁起であると同時に空でもあるのだから。でもそれを日常語化しようとすると私たちは、世界を解釈する(生活する)ため日常的に使う偏った意味という束縛に捉われてしまい易い。そこから自由になり、文脈の意味を日常語の連続としてではなく、空の審査を受けた単語の意味の連続(縁起)として構築することによって空の言語化は可能になるのではないだろうか。

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