『街とその不確かな壁』 村上春樹
この作品は私が長く待っていた村上春樹

の新刊でとても良いけど、少しわかり難いところもある。おそらく何かのメタファー(隠喩)なのだろうが、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に似ている。ウィキペディアによれば、
1980年『文學界』9月号に掲載された。後に発表される『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』へと発展する習作的な小説として位置しているが、村上の意向により単行本や全集にも一切収録されていない作品である。
この作品は、『1973年のピンボール』が芥川賞候補となったことにより、その受賞第1作として発表することを意識して書いたと、村上自身がインタビューで明らかにしている。テーマそのものは以前から暖めていた内容であったが、文体は前2作とは異なり生硬で難解なものとなり、また物語の結末も本人にとって納得のいくものではなかったようで、村上は後に「あれは失敗」であり、「書くべきじゃなかった」とも語っている。
2023年4月13日に発売された長編『街とその不確かな壁』の題名は、これから句点が一つ抜かれたものである。
とある。村上春樹自身も後書きの中で同様なことを述べているけどさらに続けて
この作品(街と、その不確かな壁)は僕にとってずっとまるで喉に刺さった魚の小骨のような、気にかかる存在であり続けてきた。それはやはり僕にとって大切な意味を持つ小骨だったのだ
と述べている。その小骨を取りあげて40年ぶりに書き直された作品だ。でも難解であることには変わりない。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も難解ではあるけどエンターテイメントとして成立していた。でもここではエンターテイメント性は薄いので、あらすじを述べることにあまり意味はない気がする。なので特徴的な文章をいくつか引用しよう。
電子版 p125(電子版ではページ数は目安にしか過ぎないけど)
さて、わたしとはなにか?
それが大きな問題になります。
ここにいるわたしは、本物のわたしの身代わりに過ぎません。本物のわたしの影のようなものに過ぎません---というか、実際に「影」なのです。
p369
本体と影とは本来表裏一体のものなのです。本体と影とは、状況に応じて役割を入れ替えたりもします。
p536
「僕は思うのですが、街を囲む壁とはおそらく、あなたという人間を作り上げている意識のことです。だからこそその壁はあなたの意思とは無縁に、自由にその姿かたちを変化させることができるのです。人の意識は氷山と同じで、水面に顔を出しているのはごく一部に過ぎません。大部分は目には見えない暗いところに沈んで隠されています」
p538
「比喩的にか、象徴的にか、暗示的にか、そこはよくわかりませんが、M**(※突然行方不明になってしまった風変わりな少年)は何かしらの通路を見つけて、その街に入り込んでしまったように、僕には思えてならないのです。言うなれば水面下深くにある、無意識の暗い領域に」
p539
いや、それは比喩でも象徴でもなく暗示でもなく、揺らぐことのない現実なのかもしれない。私は現実のイエロー・サブマリンの少年が、その現実の街の通りを歩いている様子を思い浮かべた。そして私は憧憬しないわけにはいかなかった。少年のことを、そしてその街のことを。
p555
「彼(ガルシア=マルケス)の語る物語の中では、現実と非現実とが、生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」と彼女は言った。「まるで日常的な当たり前の出来事みたいに」
p575
「ねえ、わかった? わたしたちは二人とも、ただの誰かの影に過ぎないのよ」
p579
時計台の前を通り過ぎた。通り過ぎるときに、習慣的に時計を見上げた。時計はいつものように針を持たなかった。それは時間を告げるための時計ではない。時間が意味を持たないことを示すための時計なのだ。時間は止まってはいないが、意味を失っている。
p593
「だってぼくはもともとあなたであり、あなたはもともとぼくなのですから」
私は深く当惑しないわけにはいかなかった。もともと私が彼であり、彼が私である?
p597
そこまで明瞭な夢はどう考えてもあり得ない。
しかし、と私は思う、現実はおそらくひとつだけではない。現実とはいくつかの選択肢の中から、自分で選び取らなくてはならないものなのだ。
もともと非現実的な話しを断片で提示して全体を明示できるわけはないけど、雰囲気だけは伝えられたのではないだろうか。要するに影を持たない非現実の高い壁に囲まれた街と影を持つ現実の世界の交差を描いた作品である。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界は関係を持たず最後で繋がるだけだけど、この作品では常に交差しているのが違う点である。そしてその成果には村上春樹自身も満足しているらしい。
そして私の解釈を述べるなら、この作品での「高い壁に囲まれた影を持たない街」は空の世界であり「影を持つ世界」は縁起の世界のことである。つまり村上春樹は空を縁起と関連づけて言語化したのである。凄いことだ。小説という枠組みの中でそれを成した人を私は他に知らない。でも村上春樹が仏教哲学を学んだという形跡はない。西洋哲学にも仏教哲学に近い思想があるから、おそらくそれらからの類推なのだろうが、それにしても凄いことだ。