空の言語化の試み #11 状況と実験
物理学では現実を解明するために先ず状況を分析し、そこに至った経緯に仮説を立て、その仮説の正否を実験によって検証する。仏教でもその方法論は同じで先ず現象を縁起と空で分析し、そこに至った経緯に仮説を立て、その正否を瞑想(シャマタとヴィパシャナー)によって検証する(一般的には、瞑想は聞思修における思の内容を修によって身体レベルで馴染ませると説かれることが多いけど、私は体に馴染ませるというのはこういうことだと思っている)。
少し話しは逸れるけど、ここで偶然(縁起/変化するもの)と必然(空/変化しないもの)について考えてみたい。例えば私は今ダラムサラにいてチベット仏教を勉強している。私は偶々ここに来てライブラリに通いこのアパートに住んでいるけどこれは偶然であると共に必然でもあった。生まれてから今までの私の体験がここに必然性を持って導いたのである。これは運命だったとも言えるし私の自由意思であったとも言える。偶然と必然は絡み合っているのである。
仏教の影響を強く受けて「不二一元論」を説いたバラモン教のシャンカラ(ヴェーダーンタ学派)

の「梵我一如(ブラフマン〈神〉とアートマン〈私〉の同一性)」というのも本質はこのことであると私は理解している。しかし「不二一元論では自己と他者との間の差異と相互理解(縁起)を説明できない。宇宙原理としてのブラフマンも個的原理としてのアートマンも神格として一義的であるので、一義性(必然性)と多義性(偶然性)が同一であることを説明することはできないからだ。それに対して仏教は絶対的な神(一義性)を認めないからブラフマンもアートマンも認めず、縁起と空でこの難問を解決しようとする。
少し方向を変えて、キリスト教の難問である「神が定める運命と私の自由意思との矛盾」という問題について考えてみたい。運命と自由意思という問題は仏教では空と縁起の両立という問題に変質する。空は意味の体系である縁起を超えているから、キリスト教の神のように絶対的な価値を持ってしまいやすいのだけど、空もまた縁起という現実の一部であると考えるべきである。何故なら、仏教の本質は絶対的な価値を認めないことであるからだ。これは数列における'0'の位置と同じである。数例という縁起ので中で’0’は空に等しい。なので、空もまた縁起の一部てあると考えた方が良い。
同様に私はキリスト教の神もキリストという他者との関係によって偶然に成立している縁起の一部である、と考える。もちろんこんな解釈をキリスト教は認めないだろうけど、それだから上記の問題がキリスト教では難問になってしまうのである。
仏教に戻って、私の当面の問題は瞑想という仏教の実験においてシャマタ(止/空)とヴィパシャナー(観/縁起)を具体的にどのようにしたら統合できるのか、という問題だ。実際の作業としては経量部における刹那滅論のように行の時間を止め、刹那の連続によって行の時間を再開する。その繰り返しの中で縁起の観察において得られた知見を空によって検証する、という作業だ。でもこの作業は難しい。何故なら時間が止まらなければ空は現前しないし、時間が流れなければ縁起は成立しないからだ。時間を止めながら流すという難問は、刹那滅論によって可能なはずなのだけど、そのためには縁起の時間を極限まで細分化(無化)しないといけない。そんなことは縁起の中だけでは不可能なので、統合するためには空にも何らかの時間を持たせないといけない。その方法の一つが詩的論理によって生まれる時間である。それは陶淵明などの中国の詩やマラルメなどのフランスの詩、アメリカ人画家のアンドリュー・ワイエスやロシア人映画監督のタルコフスキーなどによって実現されている。このような時間は、矛盾を排除してしまう形式論理では生まれないものだ。詩的論理とは変化を排除した形式論理とは別の、生きている今の時間を内包した体験のことである。