空の言語化の試み #2
空と言葉の関係性を考えてみたい。
名詞は個々の存在物を指すことが多く意味を固定してしまいがちだけど、単語の連続である文章はナーガルジュナやチャンドラキールティが行ったようにそれ(意味の固定化)を防ぐことができる。そしてこれは、言語とは意味の差異の体系である、と規定したソシュール

の定義にも合致する。
前回の記事では連続する映画に対して静止した一齣を対置させたけど、それとは逆の方向で(空ではなく縁起の立場から)固定した名詞(存在物)に文章という流れを持たせることによって、言葉に絶対的意味を持たせず相対的に使うことができると思う。つまり言葉とは縁起であり方法論のことであるということだ。そして実際の言語も例外なくそのように機能している。どの言語の辞書にも動詞/助詞/格には複数の意味があり、文脈によってその意味は変化する。つまり言語を成立させる基本要素は単語ではなく文脈(縁起/時間/意思)であるということだ。そして個々の名詞と助詞あるいは格を動詞が統合するので、文脈の中で最も重要な要素は動詞である。その上で、文脈を統合する動詞を使うのが人の意識であるのだけど、この意識は必ずしも論理的に働くものではない。唯識思想にあるように、それは無始劫来の多種多様な業(行為/動詞)の積み重ねによって成立しているので人類の歴史全体に等しい。なのでアーラヤ識というのは人が行った業の積み重ねであり、それが言葉の動詞として結実している。
人はこのアーラヤ識/動詞の体系から自由になれるのか、というのが唯識思想の根本問題である。アサンガ(無着)が追い求めたのがこれで『摂大乗論』はこの難問を巡る名著である。アサンガはこの本の中で、悟りを啓くためにはアーラヤ識(煩悩)を否定するのではなくむしろそれを突き詰めること(縁起)によって悟りに至る、と述べている。つまり、空による言葉の否定ではなく目の前の縁起という関係性のあり方を追求することで悟りに至ることができる、ということだ。アサンガは明示的に縁起を言葉であるとは述べていないけど、私は中観と唯識の違いは言葉を否定するか肯定するかの違いだと思っている。そして縁起が悟りを導くという考え方は密教にも繋がる。おそらくインド密教も唯識思想から影響を受けて発展したのではないだろうか。なので唯識は中観/禅宗とは違って論理的言語を否定しない。言葉という方法論(縁起)を突き詰めることによって涅槃に至ることができると考える。
先にも述べたように私はアーラヤ識の本質は言葉における動詞であると考える。輪廻の主体も業の担い手も認識主体である識も言葉における動詞である。でもこの考え方は理解されにくいと思う。何故なら言葉は個人を超えた共同体で共有されるものであるからだ。個人と共同体が同一であるということはない。しかし個人は共同体で共有される言葉を使って自分固有の考えを述べることができる。ナーガルジュナもチャンドラキールティもそれを成したのだから、言葉によって涅槃に到ることは可能であるのではないだろうか。でもその場合、言葉を使う主体をどのように考えたら良いのだろうか。仏教では「諸法無我」という教えがあって、これはアートマンのようなそれ自身で成立する絶対的な主体は無く、全ては縁起の中で成立する相対的存在であると述べている。これは「私は私である」という一般常識を否定するもので、「私」とは縁起の総体のことであるということだ。私とは仮初めに成立しているもので「私/アートマン」という名詞としての実在は存在しない。「私」とは名詞ではなく動詞なのである。
おそらく「動詞としての私」とは宮沢賢治が述べたような関係性の結節点である電球のようなもの、あるいは『華厳教』で述べられた網の中の一つの結び目のようなものなのだろう。
前回の記事では連続する映画に対して静止した一齣を対置させたけど、それとは逆の方向で(空ではなく縁起の立場から)固定した名詞(存在物)に文章という流れを持たせることによって、言葉に絶対的意味を持たせず相対的に使うことができると思う。つまり言葉とは縁起であり方法論のことであるということだ。そして実際の言語も例外なくそのように機能している。どの言語の辞書にも動詞/助詞/格には複数の意味があり、文脈によってその意味は変化する。つまり言語を成立させる基本要素は単語ではなく文脈(縁起/時間/意思)であるということだ。そして個々の名詞と助詞あるいは格を動詞が統合するので、文脈の中で最も重要な要素は動詞である。その上で、文脈を統合する動詞を使うのが人の意識であるのだけど、この意識は必ずしも論理的に働くものではない。唯識思想にあるように、それは無始劫来の多種多様な業(行為/動詞)の積み重ねによって成立しているので人類の歴史全体に等しい。なのでアーラヤ識というのは人が行った業の積み重ねであり、それが言葉の動詞として結実している。
人はこのアーラヤ識/動詞の体系から自由になれるのか、というのが唯識思想の根本問題である。アサンガ(無着)が追い求めたのがこれで『摂大乗論』はこの難問を巡る名著である。アサンガはこの本の中で、悟りを啓くためにはアーラヤ識(煩悩)を否定するのではなくむしろそれを突き詰めること(縁起)によって悟りに至る、と述べている。つまり、空による言葉の否定ではなく目の前の縁起という関係性のあり方を追求することで悟りに至ることができる、ということだ。アサンガは明示的に縁起を言葉であるとは述べていないけど、私は中観と唯識の違いは言葉を否定するか肯定するかの違いだと思っている。そして縁起が悟りを導くという考え方は密教にも繋がる。おそらくインド密教も唯識思想から影響を受けて発展したのではないだろうか。なので唯識は中観/禅宗とは違って論理的言語を否定しない。言葉という方法論(縁起)を突き詰めることによって涅槃に至ることができると考える。
先にも述べたように私はアーラヤ識の本質は言葉における動詞であると考える。輪廻の主体も業の担い手も認識主体である識も言葉における動詞である。でもこの考え方は理解されにくいと思う。何故なら言葉は個人を超えた共同体で共有されるものであるからだ。個人と共同体が同一であるということはない。しかし個人は共同体で共有される言葉を使って自分固有の考えを述べることができる。ナーガルジュナもチャンドラキールティもそれを成したのだから、言葉によって涅槃に到ることは可能であるのではないだろうか。でもその場合、言葉を使う主体をどのように考えたら良いのだろうか。仏教では「諸法無我」という教えがあって、これはアートマンのようなそれ自身で成立する絶対的な主体は無く、全ては縁起の中で成立する相対的存在であると述べている。これは「私は私である」という一般常識を否定するもので、「私」とは縁起の総体のことであるということだ。私とは仮初めに成立しているもので「私/アートマン」という名詞としての実在は存在しない。「私」とは名詞ではなく動詞なのである。
おそらく「動詞としての私」とは宮沢賢治が述べたような関係性の結節点である電球のようなもの、あるいは『華厳教』で述べられた網の中の一つの結び目のようなものなのだろう。