奥の細道を求めて

仏を求める旅

「縁起」と「輪廻」について


輪廻とは何か、何が輪廻するのだろうか。

輪廻の核となるような「私」という実在はない、ということは龍樹(ナーガルジュナ)以降の大乗仏教の歴史の中で揺らいだことがない確信だ。ではそのよう核が無いなら、一体何が輪廻するのだろうか。

私はここで唯識思想を検証したい。主に無着(アサンガ)で



唯識といえば世親(ヴァスヴァンドゥ)


だと言われるかもしれないが世親の天才は論理的な範囲に留まっていると私は思う。それを超えているのが無着だ。無着が著した『摂大乗論』を道標にしてこれからの考察を進めたい。でもその本は今手元にないので記憶の曖昧な私の解釈とWikipediaからの情報に拠るのだけど。


唯識では意識の構造を三層に分けて考察する。無意識( アーラヤ識)、表象意識(感覚識)、自意識(末那マナ識)の三層だ(普通日本語で意識と言う場合にはインド哲学で伝統的な六感覚の内の法[この場合には法をものごとの意味として解釈するのが解りやすい]を認識する器官である意の識を指していて、西洋哲学で言う五感覚識とは別の識として立てる)。

そしてこの三層の識の成立の過程は生物の進化の過程にも対応している。最初に生まれるのが無意識(私は植物にも無意識は成立していると思う)、次に表象意識(感覚識)、最後に自意識(末那識)の順番で成立して行く。なので最も根源的な無意識が私たちの基本的/反射的な行動様式を決定している。(YouTubeで講義を聴ける前野隆司と言う人が提唱している「受動意識仮説」も参照してもらえるとこのことはもっと解りやすくなると思うし、あと催眠術で使われる術後催眠も参照してもらえるといい。催眠術中にかけられた理不尽な暗示を覚醒後に実行してしまう現象だけど、何故そんな変な事をするのかと問われると彼等は例外なく、言語的に辻褄の合う理由づけをするらしい)。なので一面では言葉は所詮本能的な行動の言い訳にしかすぎないのだけど、私は言葉のそれ以上の可能性も信じている(でもその話題は厄介なのでいったん置いておいて話しを本筋に戻すと)。

最初に生まれる盲目的なただ生き伸びようとするアーラヤ識だけだと間違いが多く発生しがちなので、修正するために感覚識が成立するのだろう。目や耳や鼻や舌や皮膚が危険を察知できるようになり、痛みが生まれ、個体(マナ識)は意識によってより生存戦略を先鋭化する。(補足:唯識の解説書を読むと、まず最初に生まれるのがアーラヤ識で次に生への個別的な執着であるマナ識(自意識)が生まれ、それから(外界を)認識する六識の中の一つである法を認識する器官である意識が感覚識を統合する、と解説されているけど、私はこの解釈よりも上記の解釈をとる)。

普通、私達は自らの意識という自由意志によって自分の行動を決定していると思っているけどそれは錯覚で、弱い生命が生き延びるためにはそれではスピードが遅すぎる。個体としての人間は極めて弱い生き物だったのでグズグズしてたらすぐに他の生き物に喰われてしまうから私達の行動は時間の掛かる言語化された意識よりも先に反射的なアーラヤ識が決定しているのだ。人以前の生物の進化のステップボードは効率化が握っている。いかに少ない労力でどれだけ多くの成果が得られるか、だ。

なので生物の進化の鍵を担っているこのアーラヤ識が輪廻する、と『摂大乗論』では説かれているのだけど、私の解釈ではアーラヤ識とは多くの他の存在との関わりの体験の積み重ねによって薫習されて行くものなのだから、私一人の存在だけでは成立しない、と思う。なので「今ここに生きているこの私」という存在は「無時間な仮説的な私」と「時間を共有する具体的なあなた」と「第三者的な彼/彼女」と今ここにある「この世界」との複合体なのだ(このようなアーラヤ識の性質を理解するためにはユングの「集合的無意識」や岸田秀の「唯幻論」を調べてみるのも有効だと思う)。


そしてここから本題に入る。私が言いたいのは、輪廻するアーラヤ識とは個体の生存戦略ではなく世界を維持している関係性の総体のことである、ということだ。つまり「私」と「あなた」と「彼/彼女」が別々に輪廻するのではなく、生きている間に構築された関係性のそれぞれが変化させながらまた新たに生まれ変わる。これが「縁起」であり「輪廻」である。ヴァラモン教の教えである「アートマン」と「ブラフマン」の関係性を唯識はより細分化し意味/価値づけて再編したのだ。


少し脇道に入ってしまうけど、ここで現在の発達心理学の成果を参照したい。

生まれたばかりの赤ちゃんがお母さんの表情を真似できる、という事実は既によく知られている。生まれて12時間後の赤ちゃんでも、お母さんが笑い掛けると笑い返してくれるし、お母さんが舌を出すと赤ちゃんも舌を出すらしい、赤ちゃんはお母さんの舌と自分の舌が同じだという事実は知らないはずなのにね。そんなことされたら可愛くて仕方なくなってしまうだろう。でもそれは多分、本能的なものだ。2か月くらい経つとそんな能力はなくなってしまうらしい。その後は赤ちゃんとお母さんの関係性の質によって多様に変化するらしいので、この能力はおそらくDNAに刻み込まれた本能的なものなのだろう。でもたった4種類の塩基の組み合わせだけで人の本質であるコミュニケーションを仮設的に表現できてしまう、ということは驚異的なことだ。そこから類推すると、言葉の習得というものもその一部はおそらく本能的なものだろう(チョムスキーを参照してもらいたい)。なぜなら人が言葉を自然に体得できるのは9才くらいが限界で、それ以降は文法を手掛かりにしなければ習得が難しいことは良く知られている。

そしてここで、以前に私が述べたことを訂正したい。「生まれたばかりの赤ちゃんの見方で世界を見ることが、空を観る、ということである」と言ったけど、厳密にはそれは間違いだ。だって赤ちゃんは生まれながら生命の始まりからの生き延びるために薫習されたアーラヤ識というバイアスを負っているのだから。もし赤ちゃんが何のバイアスも負わずに生まれたら、おそらく世界を認識することも生き延びこともできないだろう。


そしてここからが『摂大乗論』の眼目だ、と私は思うのだけど、無着はアーラヤ識の二面性に着目する。アーラヤ識は盲目的な生き延びようとする意志(輪廻)であるのと同時に、私とあなたと彼/彼女あるいは世界との関係の総体(縁起)のことでもある、つまりアーラヤ識とは個人的な煩悩と世界の調和との融合としての薫習である、ということだ。でも無着は明示的にこのように説いているわけではなかったと思うので、これは私だけの解釈かもしれないのだけどね。

そしてだから無着は固定化した(煩悩としての)アーラヤ識を関係性という柔らかい概念(縁起)に昇華したものが悟りであると説いたのだと思う。


さてここで私の問題なのだけど、はたしてこの仏智は私が主張するように空ではなく縁起のことを指しているのだろうか。この問題の解決のための方法論としてここでは消去法を使いたい。仏智と言えば空と縁起であるが、この場合の仏智は空のことではない。何故なら、生への渇望を断ち切った立場が空であり、空を説明するための方法論が縁起であるからだ。アーラヤ識は生への渇望に直結しているので、アーラヤ識の転回だけで空の立場に飛び移ることはできない。なのでアーラヤ識の転回によって開かれるのは縁起の世界である。縁起は世界から価値を消去し意味づけを相対化する。それは世界を一人称の視点だけから捉えるだけではなく、二人称や三人称の立場からも捉えるということである。無着は盲目的な、固定化した/煩悩としてのアーラヤ識を関係性という概念に昇華したのだ。これを唯識の用語で転依と呼ぶらしい。私が使っている『仏教・インド思想辞典』から「転依」の項目を引用しよう。

「唯識説の基本的考えによれば、精神的転換の場としての基層とは、心の底流にあって、その柔軟性を妨げるべく粗悪源としてはたらいているアーラヤ識を指すが、これを基層とする日常的な識が質的に変貌して仏の智の状態にいたることが転依にほかならない」

私の解釈ではここで粗悪な心とは煩悩のことであり、煩悩とは生への渇望を満たすために強制される制約のこと、つまり生存への効率化のための常識、思い込み、外界を人が都合よく解釈するための意味づけのことにほかならない。それに対して柔軟性(道元の言う柔軟心)とはそれに捉われない自由のことであり、私は仏教の目的は究極的なこの自由を求めることにあると思っている。そしてそれが空ということだ。


でもここで一つの問題が生まれる。縁起がそのようなものだとして、では一人称と二人称三人称との間の共通認識はどのようにして成立するのか、という問題だ。その問題の解決の糸口として私はソシュール以降の言語学が有効だろうと思っているけど、それはまだ難しいのでまた別の機会に考察しよう。


さてそして、これによって仏教の二つの柱の一つである縁起という概念が空という概念と相互補完的に明確化された、と私は思うのだけどどうだろうか。


蛇足だけど、真に語り得ないのは無だけであり、ほんの少しでも手掛かりがあればそれは語り得るもののはずだ。なので空は言語化できる。だから私は(ゲルク派からは反論されると思うけど)帰謬論証派ではなく自立論証派の立場を採る。月称(チャンドラキールティ)


の中観哲学理解は空を求める目的論としては優れていると思うけど、それの取り掛かりを探すことが難しい。無着の唯識思想はその為の方法論として優れていると思うけど、その究め方は縁起に偏っている気がする。そこで今私が注目しているのが清弁(バーヴァヴィヴェーカ)の自立論証派だ。それはチャンドラキールティのあまりにも究道的な中観思想と、中道としての縁起を究明した無着の唯識思想との橋渡しになるんじゃないかと思う。

月称と世親以降の中観と唯識の長い論争の歴史はこの問題、つまり縁起と空の関係性を輪廻に視点を当てて巡っていたのだと私は解釈している。先行きは長いけどやらなくてはいけない課題だ。

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