奥の細道を求めて

仏を求める旅

まやかし、摩耶夫人

仏教では、現実は幻と同じだ、と言う。これは最初は受け入れ難い。だって現実はいつも同じなのに幻は一瞬でしかないじゃないか、と反論する。でもこれは本当にそうなのだろうか。諸行は無常なので、例えば、繁栄していた国もやがて滅び昨日建てた家も今日は壊れてしまう。毎夜見る儚い夢にも、同じ夢が何年にもわたって繰り返し現れたりする。現実と幻の違いは、それが現れる頻度の違いでしかない。

でもそうすると、では真理の判定基準はどこにあるのか、という問題が生まれる。通常は、ある判断が現実に適合すればそれは真であり、しなければ偽である、と判定される。例えば、「オオカミが来た」と言って実際に来ればそれは真であり来なければ偽であるが、もしかしたらオオカミは途中で引き返してしまった可能性もある。また、「神は実在する」という主張は神の存在が現実にはまだ確認されていないので、神を信じる人には真だが信じない人には偽である。なので、真理の判定基準は『現実』にはなく、政治と同じように数の多さ、民主主義にある。多くの人が真だと言えば真になり偽だと言えば偽になる。いい例が言葉だ。間違った意味の言葉を使っても、多くの人がそれを使えばそれが正しい意味になってしまう。なので、『真理』はあくまでも相対的なものでしかない。とはいえ、それで真理の価値が下がってしまうわけではない。真理はあくまでも現実的に有効だ。私がよく見る夢も私にとっては真実だ。

摩耶夫人というのはお釈迦様のお母さんの名前である。サンスクリットでマーヤー、幻という意味である。お釈迦様がまだ物心つかないうちにお亡くなりになってしまった。この御名前はなにか象徴的であるような気がする。


余談だけど、私は怪談噺が好きだ。日本人では鏡花、ドイツ人ではホフマンをよく読み、落語では円朝を聴く。江戸時代の耳袋もいい。怪談噺は世界中のどこにでもいつの時代にもあるのだから、これも『真理』である。

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