奥の細道を求めて

仏を求める旅

バンコクの月、美学宗教哲学的考察

中天に二十二日の月を見る

緯度か経度の違いなのだろうけど、月の出る時間が日本とは違う。夜中の2時に22日目の月が空の真ん中にかかっている。日本だと明方くらいじゃなかったろうか。なのでこんな月を見るのは初めてだ。見慣れていないせいか、何かいびつな感じがする。村上春樹の小説の中の緑色のいびつな月もこんな月じゃないだろうか。日本とは全く違う異世界の月だ。でも見慣れていないだけで美しいのは同じ、かたちはいびつでもいびつなりの美しさがある。西洋のバロックも「いびつな真珠」という意味だったと思う。分かりやすい完全さではないけれど、その難解さの中に時間の姿を見る。北斎の「神奈川沖浪裏」はその代表作だ。ダヴィンチの受胎告知やミケランジェロのピエタが永遠の美であるのに対し、北斎は一瞬の美だ。伝統的に西洋美術の多くはシンメトリーに「美」の基準を置くけど、東洋美術はアンシンメトリーの中に美を見いだして来た。時間という不確定性を排除した中に美を求めるか、その不確定性の中に美を求めるかの相違じゃないだろうか。

そして「真理」についても同じ事が言える。私が「仏教を求めるのも詩を求めるのも同じだ」と考えるのはこの意味である。その探究の方法が同じなのだ。西洋のヴィトゲンシュタインが「すべての哲学命題には意味/解答がない」と言うのは、哲学命題には不可避的に時間という不確定性要素が入り込んでしまうからだ。なので彼は「絶対的真理」の探究を数学の範囲内に限定した。でもこれは西洋的方法論からの帰結である。

同様なことはキリスト教と仏教についても言える。キリスト教の神は時間を超越した絶対的存在であるのに対し、仏教の仏はあくまでも時間内に生きている人である。なのでキリスト教の文化圏では伝統的に時間を超越した絶対的真理を求めるのに対し、仏教では「いまここに生きている私」を出発点にするので、かならずしも普遍的な論理的整合性を求めない。仏教では論理は方便であり、「救い」のためには犠牲にしてもいいものだ。時間という不確定性の中での個々の解決を模索するので、仏教においては「100%の絶対的真理」は存在しない。現代物理学と同様に「確率」で真理を判定する。それが「縁起」であり同時に「空」でもある、ということだ。詩も同様に、「縁起」と「空」を両立させようとする。でもそれは個々の人が個々に実行しなければならないことなので、これが修行ということで詩作でもある。芭蕉も山頭火も放哉も修行者だ。


蛇足だけど、私はここに密教が成立する根拠もあると思う。密教には性的要素が強いので、密教は仏教の堕落だという人もいる。でも「縁起」の根本は、フロイトの言うように、「性」にあると私は思っている。リビドーとタナトスの同時進行が「縁起」と「空」の両立であると思っている。仏教ではとかく「空」「勝義諦」が強調されるので、「世俗諦」は劣った真理であると理解されがちだが、私はこれは間違っていると思う。「勝義諦」と「世俗諦」に優劣の差はない。もしそうでなければ、「輪廻即涅槃」とは言えない筈だ。

輪廻と涅槃が同じだというのは、どちらも空だからだ、という解釈もあるけど私はこれも違うと思う。これは空に偏った解釈だ。「さとり」とは空と縁起という矛盾した状況をそれぞれそのままに同時に両立させることにある。

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