奥の細道を求めて

仏を求める旅

解脱と煩悩

解脱とは煩悩あるいは永遠の輪廻(業苦)からの解放である、という事はバラモン教でもインド仏教でも共通の認識だ。でもいったい解脱とはどういうコトなのだろうか。


最初に結論を言っておくけど、私が思う解脱とは禅宗で云われている生と死の重ね合わせのことだ。そして解脱するためには煩悩を完全に滅してしまってはいけない。誤解されていると思うのだけど、解脱とは煩悩を滅することではなく制御するということだ。食欲や睡眠欲などの基本的な本能である煩悩を完全に滅してしまったら人は生きていけないのだから、生きながら解脱する(ある意味では死ぬ)ための方法論として仏法は成立している。つまり完全に時を止めてしまったらそこには無しかないので、人として悟りを開くためには時/煩悩を制御する必要がある。でもその時は時計で測れるような物理的時間ではなく私の中の時(記憶)を制御する、ということだ。それはつまり記憶の中の苦しさや楽しさという感情による価値づけを排除して、時を平らに均(なら)すという作業が必要だ。それができれば時は見通し易くなるし、過去が見通せれば未来の予測もつく。未来が予測できれば現在の対策も立てやすい。なのでお釈迦様が一切智者と呼ばれているのはそのような視点をすでに獲得していたからだろうけど、でもお釈迦様でさえシャカ族の滅亡を止めることはできなかったのだからそれはとても難しい。

なので少し視点を変えて存在の側から考えてみよう。より具体的な、物の重さとはどういうことか、という量子力学の本質とも繋がる問題だ。一般的に、私たちが思う「存在するもの」の確証/実感は重さを感じることにある。でも感覚には錯覚が付きものなので、実感する重さという物も実は錯覚なのかもしれない。ということで、私は重さも煩悩の一部だと考えている。そしてここで、重さもそれ自身で実在するものではないということを論証したい。


中観仏教ではこのことは空の思想として「それ自身で実在するものは何もない」として一般に承認されているコトだけど、日々の生活の中の実感/常識としてこれは承認されないだろう。今目の前にある本やペンを持った時に感じる重さを否定することはできないのだから。でも仏教の目的の一つは実在という常識/思い込みを否定することにある。中観仏教の開祖であるナーガールジュナもその弟子のアーリヤデーヴァも多彩な世界を統一できるようなただ一つの見解/現実は存在しない、ということを徹底的に主張して当時のバラモン教と論争した。


そしてこのことは現代の量子力学でも最大の問題だ。質量や重力を成立させている力はどのように成立しているのだろうか。その謎を解明することはできるのだろうか。そして今その候補として現代の量子力学では「超ひも理論」と「量子重力理論」の2つの説が有力らしい。私はカルロ・ロヴェッリを読んでいるので後者の方に期待していて、特に「ループ量子重力理論」では時間も重さもそれ自身で存在しているものではなく、すべての要素は関係性において成立していると考えられているらしい。仏教を勉強している者にはこっちの方が縁起という概念と同じなので納得しやすいけど、物質に最小単位が存在するという「超ひも理論」の方が私たちの常識的な直感には合っている。


さてここで参照したいのがデモクリトス(インドに行ったこともあるらしいので私が仏教との親近性を感じるのも不思議じゃない)というギリシャの哲学者だ。




物質の最小単位が存在するという原子論を主張した人として有名だけど、現実を成立させているのはイデアである、と説いた理想家としてのプラトンは唯物論者としての彼を徹底的に嫌っていたらしく、しかも中世のキリスト教神学者達も人格神という教理と矛盾しているから焚書され、その膨大な著作はほとんど残っていない。ヨーロッパでは紙片の断片と当時の他の哲学者達の引用によって知られているだけだ。自分の考え方と違うという理由だけで人類の知的遺産が失われてしまったことは残念でならない(今現在伝わっているデモクリトスの思想の大部分はおそらくアラビア語に翻訳された資料から復元されたものじゃないだろうか)。昔読んだ私の曖昧な記憶によれば「原子は空虚の中を彷徨う」あるいは「存在するのは原子と空虚だけである」と述べたらしい。注意して欲しいのはデモクリトスの原子を物理学の原子モデルと同じだと思ってはいけない。私が解釈している限りでは、デモクリトスが主張したのは空虚を彷徨う単独者としての原子であり、そのような原子がどのようにしてこの多彩な世界を構築しているのか、という現在の量子力学の根本問題とも繋がる問題だ。そしてデモクリトスと量子力学を繋ぐヒントとして私が思うのは、物質の最小単位における重さの問題だ。現在量子力学で発見されている素粒子は17種類あってそれぞれ質量を持つものと持たないものがあるらしい。ではさてここで、デモクリトスの原子は質量を持つのだろうか。


私が小学生の頃、なぜ磁石が引きつけあったり反発しあったりするのかが不思議でならなかった。先生や親や誰に聞いても解らない。なので聞くのを諦めてしまったのだけど、中学生の頃に理科の実験で電磁石を作って同じ物を作れることを知った。そして今では力(エネルギー)には4種類あって、素粒子間で働く強い力と弱い力、私たちが日常で認識できる電磁気力と重力があることを知っている。

アインシュタインの有名な公式で E=MC2 というのがある。はエネルギーで M は質量、は光速度だ。質量を持たない素粒子で馴染みがあるのは光子だろう。太陽から降ってくる光のことだ。光子が質量を持たないならエネルギーも持たないはずなのに、なぜ私たちは光に当たると熱を感じるのだろうか。そこにはおそらく何かしらの相互作用が働いているに違いない。そしてこのような相互作用(縁起)がエネルギー/質量/重さを生み出しているのではないだろうか。重さはそれ自体で成立しているものではない。感覚を持つこの私との関係性の中でしか成立しないものなのだ。

私はデモクリトスの原子はこのような、単独者でありながら他者との媒介を齎らすようなモノ、だったのだろうと理解している。


さてここで本来の議論に戻りたい。解脱と煩悩とはどのような関係にあるのか、という問題だ。解脱とは輪廻(苦)からの解放/自由/虚空のなかの単独者としての原子のことであり、煩悩とは生への執着/繋がりとしての絆/他者との媒介者としての原子のことである、と私は解釈している。でもこの2つの概念は矛盾している。なぜなら量子力学の成果によれば、片方は質量がゼロでないと成立しないのにもう片方は質量(あるいは時間)を持たなければ成立しないのだから(でもこの前提は量子力学的に正当なものなのだろうか、専門家に訊いてみたい)。私はこの矛盾を統合するためのヒントがチベット仏教(ブッダパーリタ〜チャンドラキールティとバーヴァヴィヴェーカの弟子達の論争の歴史の記録)にあると思っている。チベット仏教の用語で言うなら、私は帰謬論証派(空)と自立論証派(縁起)の論争を止揚したい(とは言えこの問題設定も的確なものなのかどうかまだ自信はないのだけれど)。

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