奥の細道を求めて

仏を求める旅

刹那滅



時間論は物理学でも西洋哲学でも一大テーマだけど、私の知る限り仏教学に於いては刹那滅論しかない(とは言えそれは膨大な量なのだけど)。なのでまず仏教における刹那滅論を紹介したい。

刹那滅は仏教に於いて諸行無常を時間論の立場から説明した概念だ。流れる川のように、ものごとは一瞬(刹那)も留まらない、という認識は仏教全体に共通しているけど、この刹那の捉え方/解釈が上座部の有部と経量部で違う。有部は時間の最小単位(刹那)が存在すると主張するのに対して、経量部は刹那に長さはない、と主張する。でもこの論争は形而上学になってしまって結論は出ないので、少し見方を変えてギリシャ哲学(その当時からインドとギリシャには交流があったので仏教哲学とギリシャ哲学には共通点が多くある)を見てみたい。


ゼノンの有名な「アキレスと亀のパラドクス」だ。説明すると、アキレスと亀が競走する。もちろん亀よりアキレスの方が早いので 10m のハンデをつける。同時にスタートするけど、アキレスが 10m 先の亀のいた地点に追い着いた時にはもちろん亀はそこよりも少し先に進んでいる。そしてまたそこに着いた時にもやはり亀はもう少し先にいる。そしてこのことは無限に繰り返されるので、アキレスは永遠に亀に追い付くことはできない、という論理だ。これはもちろん私たちの直感に反するけど、ゼノンが言いたかったのは、厳密な論理に反するような世界は幻でしかない、ということで、そしてそれは中観唯識派の主張にも通じるし、現代の量子力学の世界観にも繋がる。

ゼノンの論理の本質は、時間は無限に分割できるから無限に分割されたものの合計も無限になって、アキレスは永遠に亀に追い付くことはできない、というものだ。でもそれがパラドクスなのは、無限に分割されてしまった時間はユークリッド幾何学における点の定義と同じで長さを持たないのだから、長さを持たない点をいくら集めても具体的な長さにはならないので、ゼノンを論理的に否定するには(現代数学の積分によっても否定できるそうだけどこれはフェアじゃない)無限には分割できない時間の最小単位が存在することを認めないといけない。

余談だけど、でもそしたら空間にも最小単位は存在するだろうから、円周率にはやがて終わりがあるだろう。そして本当に終わりが有るのか無いのか、現在計算されているのは100兆桁(10-17乗)までだ。そして量子力学の予想に依ればその値は1cm-44乗くらいになる(これはカルロ・ロヴェッリという物理学者が述べていることで、長さの最小単位は無いと主張する学者もいる)らしい。直線と曲線の幾何学を解明するためにコンピュータに頑張ってもらうしかないのだし、仏教における刹那を解明する有効な手掛かりにもなる。どうかなんとか頑張ってもらいたい。


ここで有部と経量部の議論に戻る。有部は時間の最小単位を認めるのに対して経量部ではそれは無いと解釈していた。空を優先するなら経量部の方が正しいのだけど、縁起を優先するなら有部が正しい。部派仏教の時代の世親が有部だったのか経量部だったのかは難しい問題だ。おそらく両方に足を置いていたのだろう。ここでその時代の世親の言葉を引用したい。

「刹那の量はいかほどであるか。諸縁が和合する時、法が自体を得るに至るまでの間、また動く法で極微から他の極微へと動くに至る間である」

また別のところでは

「法はそれ自身を維持するから法である」

とも述べている。これらを解釈するのはとても難しい。変化はなぜ起こるのか、そしてその変化が法として定着されたのは何故なのか。おそらく今私が思うところでは、無始劫来の長い薫習(試行錯誤)の歴史の結果たちの中で人の脳の記憶許容範囲内で生き延びるために有効な結果だけが淘汰されたのだろう。なので世親は上座部仏教から大乗仏教唯識派に転向したのじゃないだろうか。


そして中観哲学の矛盾もここにある。空と縁起は論理的に決して同時には両立しない。何故なら縁起は時間がなければ成立しないけど、空は時間を超越/無化したところに成立しているのだから。その両方を統合して生きるためにはどうしたら良いのだろうか。私の仏教の先生によれば、それを同時に統合したのが仏であり、まだ統合できていないのが菩薩であるらしい。

おそらく、一番重要な問題は時間をどう解釈して生きるのかにあるのだろう。時間の最小単位が存在するかしないかによって有部と経量部が分かれたし、空を優先する中観帰謬論証派と縁起を優先する自立論証派の一番大きな違いもここにあるだろう、と私は思っている。

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