奥の細道を求めて

仏を求める旅

芭蕉と子規の俳句についての私の解釈

田一枚 植えて立ち去る 乙女かな

芭蕉

うろ覚えなので、この句がこのままだったかどうか分らない。そして以下に述べるのは、まったくの私の空想だ。

ある日、芭蕉が長い旅に疲れて、陽にきらめく美しい瑠璃/陽炎のような水が張る田んぼの近くの、大きな木(たぶん20mくらい離れている)の根方に寝ころんで休んでいると、そのあまり大きくない田圃に若い娘が一人田植えにやって来た。時は午少し前。編笠を被っているので顔容はよくわからない。姿容からして歳の頃は十五、六だろうか。たぶんその娘は早めに午食を摂りその日の内に田植えを終わらせてしまおうと思ってやって来て、乞食坊主のような芭蕉には目もくれず田植えを始めたのだろう。春の日は麗らかで風はそっと優しい。日の暮れる頃、ようやく田植えを終えたその娘はそのまま帰ってしまう。芭蕉は持っていた弁当を食う事も忘れてずっとそれを見ていた。

それは何故なのだろう。若い娘と旅に老いた自分、その決定的な時間の隔たりがあってもなお/だからこそ、芭蕉はその娘との空間の隔たりの中に縁起としての自己を見たのだ。その時、芭蕉とその娘は別の物ではない。芭蕉とその娘との間には現実的な関係は無いけれど、世界がこのような状況の時には、そこに何かしらの関係が生まれることもある。世界内の関係性/縁起というものは、ある状況下では、勝手に(存在とは関係なく)成立してしまうもの(ある意味では関係が静的・固定的な存在/私、に優先するということ)だ、ということをこの詩は示している。

そして、この詩の主題は「田一枚植え」にある。個体としての乙女にも芭蕉にもフォーカスはあたっていない。たまたまこの時この場所に起こった、田植えという純粋な行為としての時間の流れがこの詩のテーマであって、通常の田植えの意味もここでは無化されている。動的な時間の中に縁起が生まれる瞬間を捉えようとして、芭蕉はじっと見つめ(瞑想し)ていたのだろう。

次に述べる「古池」に比べると、この句の「田植え」は暖かく懐かしく優しい。縁起とはこのように成立するものだ。


古池や 蛙飛び込む 水の音

芭蕉

この句については前にも書いたことがあったと思う。「古池とは宇宙の原初の池のことで、蛙とはその宇宙に初めて生まれた命のことだ」という解釈だ。それをもう一度ここで考え直してみたい。前の句の娘と対比して、この蛙は一匹だったのか、それとも二匹か、あるいはそれ以上いたのか。つまりここには縁起が成立していたのか、という問題だ。私はこの句には縁起は成立していない、と思っている。それはこの詩の主語は縁起ではなく、古池だからだ。古池は縁起の前に成立している、と芭蕉は考えていたのではないだろうか。なので古池以下の言葉は古池を説明するための修飾句でしかない。この詩の主意は、ただ古池、と言いたかっただけのことであり、そこに生まれる命は、それがいなければ古池を記述することができないので、かりそめにそこに付け加えられた不純物(ことば)である。そして宇宙の始まりのこの古池にはまだ温度が無い。暖かさや寒さというものがそもそも無い。なのでそこにいる蛙も生き物としての温度を持っていない。

けれど、そこに音がすること(田植えに縁起を見る目)によって、旅/瞑想の中の芭蕉は古池に気づくことができた。そして蛙がいなければ私たちも古池を知ることができない。なのでこの蛙は単数でも両数でも複数でも構わない。〈ことば〉とはあくまでも〈かりそめ〉のものだけど、〈ことば〉という命がなければ私たちは真理を探究/記述する(伝える)ことができない。


鶏頭の 十四、五本も ありぬべし

子規

この句についても前に書いたことがあった。この頃、子規は死の床に就き耐え難い痛みに苦しんでいた。脊椎カリエスという病名で、身体は元気なのに背骨の中の神経だけが死んで行くという病気だったらしい。背骨の中には神経が詰まっているので、元気な身体中からの痛みを感じながらも、神経が死んでいるので自分から身体を動かすことができない。それがどれくらいの苦しみだったのか、私にはまったく想像もできないのだけれど。当時も麻酔はあったので、痛みを取り除く事はできたらしい。でも麻薬は意識を不鮮明にしてしまうので、詩に命を賭けていた子規はその治療を拒否した。痛みの強弱は波状的にやって来るので、どうやっても耐えられないような痛みが去った後の、束の間の安らぎの中でこの詩を作ったのだろう。

夏の日盛りの庭に鶏頭が咲いている。厚ぼったく、赤黒く、だらっと咲いている。それは今の子規の状態とも重なっただろう。動くこともできず、夏が過ぎたら死を待つだけだ。その鶏頭は障子の向こうに影(幻、現世/来世)だけが見えている。でもそれは一本ではなく列をなしている。その数は七、八ではなく、十四、五でなくてはいけなかった。


この三つの俳句に共通しているのは、そこに死の陰が付き纏っている、ということである。(縁起という)生が生まれた今/前/後の死がすぐそこにある。

×

非ログインユーザーとして返信する