奥の細道を求めて

仏を求める旅

チベット語を読む

インドがロックダウンされてから既に7週間が経つ。その間、ゲストハウスに閉じ込められているので、今読んでいるチベット語教材の例文を私なりに解釈してみたい。その例文の和訳は


「対象を実在すると捉えることが輪廻の根本であるならば、非実在であると見たならば、輪廻から解脱することになるのではないか、と言うならば、前者よりも後者は過失が大きい。実在であると捉えることは牧童と同じであるが、実在しないと捉えるならば、それよりも愚かである」


和訳冒頭の「対象を実在すると捉えること」のチベット語原文は །དོན་དངོས་པོར་འཛིན་པ།「ドゥン・グ・ポル・ヅィン・パ 」である。この部分を省察してみたい。

「ドゥン」を辞書で引くと「対象」の他に、実在、真実、現実、利益、現象、意味、概念、理由、カテゴリーなどと載っていて、現実の対象を表すと同時に、言葉の指示内容をも表す単語であるようだ。ではここで、〈現実〉と〈言葉〉の関係を考えてみる。

〈現実〉とは何か。それは私の目の網膜に写った映像が信号に変換され、視神経を通して脳に送られ、その信号を脳が再構築した結果のことだ。なので〈現実〉は私の脳の中にある。ではなぜ、私の頭の中にある現実を私は他者と共有できるのだろうか。

それは〈言葉〉があるからだ。帰謬論証派では、言葉は普通「本物をゆびさす代用品」あるいは「レッテル」と考えられていると思うけど、言葉の機能はそれだけではない。

言葉あるいは意味が、わたしとあなたをつなぎ、世界を構築するのだ。私が自立論証派を擁護するのは、帰謬論証派では縁起を説明できないからだ。

私は、その隙間を紡ぐのが唯識派だと考えている。唯識は方法論であり、存在論ではない。アーラヤ識は自存しない。あくまでも、わたしとあなたとのあいだに成立している関係性のことなのだ。

このチベット語教材が間違っていると私がおもうのは、この教材が〈詩〉を理解していないからだ。

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