奥の細道を求めて

仏を求める旅

テーラワーダへの質問を整理する

先日のシルバーパゴダでの失敗は、若い坊さんに聞いてしまったという事もあるだろうけれど、私の英語の拙さに拠るところも大きかったと思う。そこで、質問の内容とその問い方をここでしっかり組み立ててみたい。

「諸法無我」はパーリ語では、'sabbe dhamma anatta' と言う。sabbe はすべての 、dhamma は法、an は否定辞、atta は 我を意味する。テーラワーダではパーリ語を読むのでこれを見せれば解るはずだ。その上でこの言葉の意味を質問する。テーラワーダは人無我は認めるが法無我は認めない。法は勝義諦の一つだという立場だけど、この言葉を素直に読めば、法が無我だと言っているのは明らかだ。とは言え、これには「法」と「無我」というやっかいな単語が含まれていて、この単語一つでも何冊もの本が書かれているくらいだから、この質問が議論の中心になるだろう。

この問題はあまりに大きいので、一つずつを整理したい。


1, 法の定義

法とは何か。それは言葉だと私は定義したい。

インド一般では法と言うのは人の生き方のあるべき姿、人生の目的、輪廻からの解脱の方法、とも言われるけど、でもそれはあまりに多様なので、ここでは物事のこと、「もの」と「こと」のこと、と定義したい。物と事が世界を成立させている。仏教用語では「色」「受、想、行、識」と言う。「色」が物で、「受、想、行、識」が事だ。でもそれはすべて言葉でしかない。事が言葉だというのはわかりやすいと思うけど、物もやはり言葉でしかない。たとえば、机は人にとってのみ机なので、猫にとっては寝床、蝿にとっては不毛の荒野だろう。それぞれの生き物がそれぞれの生き方によって物を意味付けるので、物も意味、言葉でしかない。永遠普遍の実在なんてものはない。

でもそうすると、真理の基準はどこにあるのかという問題が生まれてしまう。嘘と真実の区別がなくなってしまうので、テーラワーダではこの難問を回避するために法という永遠普遍の真実、実在を認める、のだと思う。

でも、私はそんな基準なんてどこにもないと思っている。たとえば、神話は現実ではないけれど、真理ではある、ようなものだ。

法は筏でしかない。川を渡ってしまえば、棄ててしまっていいものだ。


2.無我

我もまた言葉でしかない。デカルトの有名な言葉「我思う故に我あり」、は人が時間の中で生きているという現実を無視した数学的な真理でしかない。私達は常に変化しているので、A=Aといったような自同律は成立しない。数学は時間というやっかいな要素を棚上げにした上で成立する相対的真理の中の一つだ。仏教は、今ここで生きているという現実を対象にするので、そのような無時間的、絶対的な真理を認めない。ゲーデルの「不完全性定理」の証明は、数学の内部から数学のそのような限界を発見した画期的な業績だった、と私は理解している。

人無我はテーラワーダでも認めるので、これは問題ない。

3 . 勝義諦と世俗諦

テーラワーダでは勝義諦(paramatta)として、心(citta)、心所(cetasika)、色(rupa)、涅槃(nibbana)を認めるらしい。それに対してマハーヤーナ(大乗)、とりわけ中観、では勝義諦は『空』をしか認めない。言葉による真実は世俗諦である。真実ではないものは唯世俗と言う。

テーラワーダでは世俗諦をパンニャッティ(pannatti)と言い、これは世俗諦と唯世俗を一緒にして、戯論(papanca,サンスクリットではprapanca)として否定してしまう。でも私はこれは正しい解釈ではないと思う。唯世俗は否定されるべきものだが、世俗諦はそうではない。言葉が道なのだと信じている。なので勝義諦と世俗諦には価値の優劣はない。

でもこれには中観からも批判があるかもしれないけど、私は月称と同じように清弁も尊敬している。


4 . 四向四果

テーラワーダの預流果(sotapanna)はマハーヤーナの『十地経』の第六現前地と同じものか。

一来果(sakadagamin)、不還果(anagamin)、阿羅漢(arahant)は『十地経』の第七地以降とどう対応しているのか。

残念ながら今手元に『十地経』がないので確認できないけど、でも基本的には同じなんじゃないかと思う。


5 . テーラワーダへの批判

テーラワーダでは『中論』の、「輪廻即涅槃」を認めない。それを認めてしまったら、輪廻から涅槃への道筋がなくなってしまう、という。

でももしそうなら、なぜお釈迦様は大悟の後で45年間も説法を続けたのだろうか。それは慈悲心からだ。もちろん最初は理解できる人にだけ説けばいいと思っていらっしゃったのかもしれないけれど、説法を続けるうちにどんな人の中にも解脱への機根があるのだとお考えになったのではないだろうか。子どもを亡くした下層民のお母さんや、人を殺し続けたバラモンの弟子の中にもそれを見つけたように。

涅槃もまた、それだけでは在りえないのだ。テーラワーダは縁起を理解せずに、涅槃が究極の実在、真実だと信じている。これは間違っている。


さて、これを英語とパーリ語を交えて議論することは明らかに私の能力を超えていると思うけど、さてどうなることやら。

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