奥の細道を求めて

仏を求める旅

ドストエフスキーからマザー・テレサへ

世の中に カネと女は 仇なり どうぞ仇に めぐり合いたし

江戸時代の狂歌だったと思う。

愛と憎しみは同居する。阿部定がそうだ。執着と憎悪は片方が大きくなればなる程、もう片方も大きくなる。ただ、それを自覚するにはだいぶ時間がかかる。

「愛の反対語は憎しみではなく無関心である」と言ったのはマザー・テレサだ。マザー・テレサの中にも神に対する至高の愛と、同じくらいの深い憎しみが共存していたのだろうと思う。その葛藤がなければとてもあれだけの仕事を成し遂げるだけの燃えるエネルギーは生まれて来なかったはずだ。子供たちは別にして、大人達に対しては、愛だけに命を捧げることは出来ない。憎しみがあってこそ命を燃やすことができるのだ。何の罪もない幼い子供たちがなぜ道端で飢えて死ななければならないのか、なぜ親方や生んだ親にさえ殴たれなければならないのか。神の国という理想と、インドの現実という狭間で心が引き裂かれていたのだろうと思う。

同じことはダライ・ラマ法王猊下にも親鸞にも言えると思う。この三人の偉大な宗教家には本質的な差はない。

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