奥の細道を求めて

仏を求める旅

空と縁起


空と縁起を説きたまえる釈迦牟尼仏と龍樹菩薩に礼拝いたします


さて、以前の記事(『鬼滅の刃』と『魔法少女 まどか☆マギカ』、あるいは〈自性の否定〉についての考察)で、空と縁起について述べたのだけれど、仏教哲学については少し不明瞭で分かりにくかったと思うので再度、空と縁起および言葉との関係性について考えてみたい。

(空と縁起は大乗仏教の根本問題なので、大乗仏教について書かれた本でこの二つに言及していないものはありません。私の言葉の正否の判断はそれらの本、あるいは貴方ご自身の考えを基準になさってください。以下に述べるのは仏教の一般的な解説ではなく、あくまでも私の個人的な考えなので、質問や反論があればどんどんコメントしてください。私は仏教を教えたいのではなく、それについて議論をしたいのです。)

私の根本的な問題は、空だけだと虚無主義になってしまうし、縁起だけだと輪廻から抜けられない(解脱できない)ので、どうしたら空と縁起を両立させられるのか、というものだ。こういう種類の問題を仏教では、一般に中道として解決されているけど、お釈迦さまご自身が「私を尊敬してはいけない。あなた自身で考えなさい」とおっしゃっているので、私はこの中道(一般的には、中道は苦・楽、虚無・実在の間の仏教外の問題を止揚するために説かれる)を仏教内の問題として捉え直してみたい。

そして西洋哲学ではこの問題は「永遠/普遍/真理などという理念的なものがいったいどうして私たち一人ひとりのような経験的・偶然的で個別的な存在者のもとで成立するのか」という問題として、プラトンとアリストテレスの昔から、そしてそれを受け継いだ多くの哲学者達によって今でも議論されている。なので私も、仏教の側からそれはどのようにしたら具体的に可能なのか、その解明の試みの方法の議論に加わってみたい。


1.空

空と言うと伝統的に、「色即是空」といって既に縁起を内包した意味になってしまっている。いきなりこれではサッパリわけがわからない。空はもともとサンスクリット語では空虚、空っぽ、何も無いという意味なので、ひとまずここでは空を無という意味で使うことにする。

さて、仏教を含めたインドの宗教すべては解脱を目的にしている。解脱とは究極的な自由のことで、輪廻という苦しみ/拘束/牢獄から解放された安らかな状態のことだ。現在の豊かな日本では輪廻は嫌なものではないと思われているかもしれない。再び人間に生まれて、楽しい人生がまた送れるなら、そんないい事は無いじゃないか、という風に。でもそれは間違っている。ほとんどの人間は生まれ変わったら地獄に行く。だって人間だけが他の生き物を食って楽しみ、他の生き物に食われる事がないのだから、生き物を食って楽しんだ人間が、また幸運な人間に生まれ変われるわけがない。もし閻魔様の入力ミスか何かで、偶々また人間に生まれたとしても、でもやはり自由ではない、拘束された牢獄の中にいるのには変わりない。

なぜなら、生きる為には世界をその生き方に合わせて解釈/改変する必要があるからだ。生き物が生きている限り、世界をそのありのままに体験することはできない。この、世界の解釈/改変あるいは意味づけのことを仏教では煩悩/執着と呼ぶ。人は生きている限りこの〈意味という牢獄〉から逃れることはできない。

上座部仏教で強調される四聖諦(四つの真理)の中の苦諦はこの牢獄にいる自覚のことだと私は思っている。そしてこの自覚から菩提心(仏の悟りを得たいという願い)が生まれる。大乗仏教で何よりも大切だと言われている〈発菩提心〉は、この上座部仏教の教えへの反省と尊敬から生まれたのではないだろうか。進歩のためにはお互いに相手を尊敬して論争をしないといけない。

話しを戻して、脱獄できない牢獄から解放されるためには一度死んで来ることが必要だ。とは言っても、もちろんこれは具体的に自殺しろという意味ではなく、思考実験として死ぬことだ。この訓練を〈瞑想〉と言う。死んだら煩悩も執着もないので、その時に私が見る世界がどうなるのかを瞑想して体験してみる。すでにそこにこの私はいないのだから、その時世界は意味を失い、ありのままの姿を現わす。ありのままの世界とは、ドストエフスキーが言った「田舎の風呂場の隅にかかった蜘蛛の巣のようなもの」で、つまり空っぽだ。あなたは照明の暗い田舎の生温い湯に浸かりながら天井の隅に張られた蜘蛛のいない蜘蛛の巣を見たことがあるだろうか。そこには何の意味もなくただ幾何学的な図形だけがある。それに自分を同化させるのだ。自分を一つの目にして、ただそれを見つめる。そこには目に捉えられない風に幽かに揺れる蜘蛛の糸だけがあり、そしてそれが同時に目でもある。そんな状況を何度も繰り返し瞑想して体験してみる。するとやがて、その糸が私自身だったのだと気づく。その糸と私の揺れの共鳴が〈縁起〉だ。


2.縁起

縁起とは関係性のことである。空によってすでに物/意味は捨てられているので、ただ関係性だけがある。

普通、関係と言うとまず二つの物があってその間に関係が生まれると思うだろうけど、そのような考え方を廣松渉の哲学用語では〈物的世界観〉と言う。それに対立するのが〈事的世界観〉で、日本語では物事(ものごと)という言葉で世界のすべての在り方を表現できる。普段、私達が世界を認識する時には世界を〈もの〉として見ている。世界は私がいなくても成立している静的な実在なのだという風に。それを逆転させて、〈こと〉が成立していなければ世界もないと考えてみる。縁起という関係性の中からのみ、私もあなたも世界も析出されるのだ、と考える。ここまでは空と縁起は矛盾しない。

でもここから難しい問題が生まれてしまう。空には何もないので、そこには時間も流れない。でも縁起/関係性は時間が流れなければ成立しない。これは決定的な矛盾だ。論理的には解決不可能な難問に思える。正面からこの問題に取り組んでも成果は得られない気がするので、少し回り道をしよう。空に何か時間的な要素を持ち込むことはできないだろうか。空の内側からは不可能なので、縁起の側から攻めてみよう。縁起/事(こと)は言(こと)でもあるので、空を言語化することを試みたい。

禅ではそれは不可能だと言うし、ヴィトゲンシュタインも(おそらくゲーデルの不完全性定理を前提にして)哲学内でのその問題の解明を否定した。でも、やってみなくちゃわからないじゃないか。

手始めに、赤ちゃんが生まれて初めて見る世界がどのようなものなのかを考えてみよう。おそらく、その時に見える世界は色面の組み合わせだけだ。赤ちゃんの脳はまだ遠近感を測るだけの両目の動かし方を知らないし、線はまだ生まれていない(線、区切り、カテゴリーは抽象的な概念なので初めて見る世界にはまだ成立していないはずだ)。美しい色の組み合わせと優しい声と美味しそうな匂いと、初めてオッパイを吸った口の中の甘みと柔らかい肌触りがある。生まれたばかりの赤ちゃんにとってはお母さんが世界のすべてだ。私はここにこの難問を解く鍵があるような気がする。

西洋では、眼耳鼻舌身だけを感覚器官とみなすけど、仏教(もしかしたらインドの常識)では六番目の感覚器官として意を定位する。なので仏教では眼耳鼻舌身意の六つを感覚器官として認める。意は日本語で言うこころのことだ。

英語では、触覚で得られた感覚のことを表わすのに feel という動詞を使うけど、feel は身体で触った感じだけではなく、こころが触れた感覚も表わす。英語ではこの二つの感覚を一つの言葉で表現するけど、仏教ではこの感覚を捉える器官を肌とこころの領域の二つに明確に分ける。

私もこころは意識ではなく、身体と脳の間に成立している感覚器官の一つだと考える。目がものを見るように、こころはお母さんを感じる。これは脳による思考ではなく、感覚としての体験だ。西洋で呼ばれている第六感とは脳による思いつきや超能力のようなものだと思うけど、それは間違いであり、赤ちゃんが感じるお母さんとの結びつきのことなのだ。こころとはこの共鳴を捉える感覚器官の一つであり、これによって理解される世界が縁起である。脳/意識はたかがコンピュータでしかない。算盤のような、ただの演算装置だ。


3.言葉

言葉は、チベット仏教の主流であるゲルク派のチャンドラキールティ(月称)の帰謬論証派では戯論として否定されてしまうけど、バーヴィヴェーカ(清弁)の自立論証派では大きな問題になっている(と思う。と言うのは私はチャンドラキールティは読んだけど、バーヴィヴェーカはその著書をまだ読んでいないからだ。なので以下に述べるバーヴィヴェーカについての論及は私の中途半端な知識と予想に基づいている)。私はチャンドラキールティと同じようにバーヴィヴェーカも尊敬しているので、現在ゲルク派で劣勢になっているバーヴィヴェーカに味方して論証してみたい。

チャンドラキールティが言葉を否定するのはその基本的位置を空の側に置いているからだ。それに対してバーヴィヴェーカは縁起の側にいる。チャンドラキールティが言葉を否定するのは、言葉が意味を持ち、意味は空と矛盾する実在としての現実との対応関係を認めてしまうからだ。でもそれだったら、なぜチャンドラキールティは言葉を使って『プラサンナパダー』を書いたのだろうか。それは自己矛盾じゃないか。ナーガールジュナ(龍樹)本人もその矛盾は仕方のないこととして認めているけど、その矛盾を解消しようとしたのがバーヴィヴェーカだ。彼は、言葉の範囲内だけで意味の自性を認める、という立場を取った。この立場は唯識派とも共通する。唯識は言葉の問題を主題的には論じていないけど、それを識の問題として取り上げた。道具感覚としての六識、自意識としてのマナ識、根本無意識としてのアーラヤ識の本質と関係性を探究することで、空と縁起の矛盾を止揚できるのではないか、と考えた。つまりバーヴィヴェーカが言葉の自性を認めたのと同じように、唯識は識の範囲内でだけの自性を認めた。私の考えでは、一切の自性を認めない帰謬論証派より、より柔軟な自立論証派や唯識派の方が方法論としては優れていると思う。チャンドラキールティはことばを存在論として捉えたけど、バーヴィヴェーカはことばを方法論として捉えたのだ。

一般的には、方法論は目的論の道具にしか過ぎないと思われているかもしれないけど、その理解の仕方は間違っている。例えば理論科学と実験科学は両輪の輪なので、片方だけでは前進できないのと同じように。ガリレオとティコ・ブラーエが星に対する綿密な観測を繰り返したのもそのためだ。ガリレオは自身でその観測の理論を完成させたけど、ティコ・ブラーエはケプラーを待ってその観測を完成させた。観測と理論と実験と検証と反省を何度も繰り返す。実験によって検証できない理論は仮説でしかないのだから。デカルトの主著が『方法序説』という名前であるのもそのせいだ。どのような方法を採ったら真理(デカルトは真理を絶対的な真理として求めたけど、私は真理でさえ相対的なものだと考えている)に迫れるのか、が重要だ。

仏教はお釈迦さまの時代から、検証できない問題には何も述べなかった。有名なお釈迦さまのバラモン教からの難問に対する無回答は、検証できない形而上的問題には何も論及しないというお釈迦さまの科学者的立場の表明だ。この問題について、お釈迦さまは哲学的問題には興味がなかったとか、人の苦しみを救うのが目的だったので人の具体的な生き方を示したのだ、という解釈があるけど、私はそれは違うと思う。お釈迦さまは科学者でもあり哲学者でもあった。お釈迦さまが科学者だと言うと奇異に思われる方もいらっしゃるだろうけど、お釈迦さまは瞑想を実験として使ったのだ。瞑想は思弁ではなく、こころという感覚器官による体験なので検証できる。その体験をご自身の言葉で述べられたのだ。お釈迦さまは空を言語化した哲学者でもある。お釈迦さまがそれぞれの人に合わせて説く対機説法という方法を採られたのは、そのようにしないと空を言語化することができなかったから、だと私は考えている。目的論と方法論が互いに協力しなくては仏教も前に進むことはできない。

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