奥の細道を求めて

仏を求める旅

チベット語について

チベット語の特徴は品詞が流動的である、というのは以前に書いたけど、もう一つ。チベット語は語彙が少ない。日本語の場合は漢語をそのまま取り入れて語彙を増やしたけれど、チベット語の場合はサンスクリット語をそのまま取り入れるという事はせずに、あくまでもチベット語に翻訳している。サンスクリット語を音写する文字はあるけれど、それを使うのは固有名詞をチベット語に移す時だけのようだ。チベット人はインドに対する尊敬の念が深いので、サンスクリット語をそのまま使うのは失礼になると考えたのかもしれない。中国人の場合は逆で、三蔵法師がはるばるインドから運んで来た貴重なサンスクリット語文献を、読める翻訳(読めない翻訳もそれ以前にはあったので)ができたからもう要らないと、皇帝はみんな燃やしてしまった。三蔵法師はどんな気持ちでそれを見たことだろうか。インドを見下す中国を私は許せない。今もチベットを侵略している中国政府を許せないのと同じように。

それはともかく、チベット語は語彙が少ない。なので一つの単語が多くの意味を含み、曖昧な点も多く、その単語の意味を確定するには、ある程度その単語を含む前後の文脈を読む必要がある。なのでチベット語の場合、単語の意味だけを暗記してもあまり役には立たないし、意味が多すぎてとても整理出来ない。個別の単語の意味をあれこれ覚えるよりは、文章のまとまりをそのまま暗記して理解し、それからその文脈の中の単語の意味を考える方が、チベット語の学習には効率的だと私は思う。


言語学には、単語と文脈と、どちらが先に生まれたのか、という難問がある。子どもの言語の習得の過程を見ると、まずは「指差し」をして「なに」とその物の名前を訊くので、単語が先に生まれたような気がする。でも注意深く観察すると、子どもは決して無作為にその物の名前を訊いているのではなく、自分の興味の優先順位が高いものから順に訊いている事に気がつく。フランスの有名な石器時代の洞窟(ラスコーだったかな)の壁画を見ても、それは鹿や牛を個別に確定するというよりは、食い物を狩る、という行為の過程、文脈を描いたものだと、私は思う。手形のプリントがあるのは、手形を名前の代わりににしているから、というよりは、みんなの多くの手で獲物を狩るから、ではないだろうか。

チベット語を勉強するということは、言語の歴史を勉強することでもある、と思う。それは原初的で本質的であり、とても深い。

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