奥の細道を求めて

仏を求める旅

ヒマラヤの苦行者

私はホテルの部屋のベッドで、寝袋と毛布4枚に包まって横になり、窓から雪のヒマラヤを見ている。ヒマラヤの岩穴の中では今も苦行者が裸で修行しているだろう。

お釈迦様は苦行を否定なさったが、ご自身、前正覚山で6年間木喰行を実践なされた。もしその苦行がなかったら、正覚は悟れたのだろうかと私は思う。それに七日七晩座り続けるだけでも、私にとっては耐えられない苦行に思える。

『マハーバーラタ』などを読むと、苦行者のことがよく書いてある。本来、苦行は神に近づくために心身を浄化するための方法だと思うのだけれど、その中には、復讐のために何年も苦行を重ねて身体に熱を蓄え、神にも並ぶような超能力を手に入れようとする人の姿も描かれている。仏教でも、修行の副産物としての超能力は否定しない。お釈迦様も千里眼や他心通を備えていたと伝えられているが、でも決してそれを目的に修行してはいけないと戒めている。勉強や修行を積み重ねれば、知らない人にとっては一見超能力かとも思えるような力だろうが、それはあくまでも人を救うための方便であって、そのような力が実在するわけではない。お釈迦様が否定なさった苦行はそのような超能力を得るための苦行であり、解脱するための苦行を否定したのではないと私は思う。

でも今も昔もそのような超能力を欲しがる人は絶えないようで、「麻原彰晃」や「デーヴァダッタ」などはそのような人達だったのだろう。

ヒマラヤの苦行者はなにを見ているのだろうか。そのような苦行者一般をインドではサドゥーと呼ぶ。世捨て人で、行政上は死者として扱われる。統計上は数十万人いるらしいが、本物のサドゥーは少ないだろう。聖都ワラナシ(ワーラーナシー、ヴァラナシ、ベナレス、カーシーなど、呼び方は多くある)にも多くいて、死者の灰を体に塗り、額に宗派の印を描いている異形な人達なので、ご存知の方も多いだろう。私には一人ひとりのサドゥーが本物かどうか見ただけでは区別できないが、観光地にいるようなサドゥーはおそらく、ほとんどは偽物だろう。本物のサドゥーに会ってみたいが、そのためには私も雪のヒマラヤに登らなくてはいけないのだろうか。

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