奥の細道を求めて

仏を求める旅

輪廻について

ヒンドゥー教で言われる輪廻と仏教の無我は矛盾するという見解がある。確かに、ヒンドゥー教はアートマン(恒常不変の我)を認めるので、そのアートマンが業を荷なって輪廻する、というのは解りやすい。それに対して、不変を否定し時間的変化 (諸行無常) を主張する仏教ではそのようなアートマンは認められないので無我だと言う。なら、一体何が輪廻するのか? 無我であるなら『この私』は輪廻しない筈だ、というのがその論拠だ。

私はその見解は少し底が浅いと思う。輪廻するのは『この私』ではなく、私を含んだ関係性の全体、すなわち「縁起」が輪廻するのだから。輪廻とは時間の流れそのものであり、『この私』もその中の一部でしかない。

もし輪廻を認めないなら、仏教の根本である慈悲(すべての命に差別はないという考え方)は成立しなくなってしまうんじゃないかと思う。なぜなら、私達はすべて六道を彷徨うものであり、全ての命(関係性の結節点のようなもの)もまたそこを彷徨うものだからだ。その命の間には何も価値の差はない。これが慈悲の根底にある。ジャータカはその物語だ。

とはいえ、私もやはり蚊がたかれば叩いて殺してしまう。なんとも煩悩とは離れがたい。


私が思うに重要なのは、何があるか、ではなく、『この私』はどのようにして成立しているのか、を問うことだ。『この私』は糸の縺れのようなものでしかない。

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