奥の細道を求めて

仏を求める旅

アシュケナージとグレン・グールド

私が好きなピアニストは、クラシックではウラディーミル・アシュケナージ



とグレン・グールド



の二人だ。アシュケナージではラフマニノフのピアノ協奏曲の二番と三番が好きで、グールドはバッハのゴールドベルク変奏曲の2度目の録音が好きだ。でもアシュケナージとグールドでは性格がまったく違う。アシュケナージは静的夢想的な、繊細な鍵盤に触れるタッチを重視する。ラフマニノフの曲想は重いのだけど、アシュケナージが弾くととても心地よく聴くことができる。それに対し、グールドは尖っていて、動的な、目くる眩くテクニックを重視した。ジャズピアニストならアシュケナージはビル・エヴァンス



に似ていて、グールドはバド・パウエル



に似ていると言えるだろう。両者とも性格はまったく違うけど、その内部に狂気を孕んでいるのは同じだ。優しいアシュケナージや繊細なビル・エヴァンスが狂気を孕んでいると言うと奇異に思う方もいると思うけど、でもそうなのだ。アシュケナージの音の繋ぎ方、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』での音の間の取り方は普通じゃない。普通じゃない感覚は狂気だ。以前の絵の記事でも書いたけど、芸術は狂気の中に成立する。縄文火焔土器の中に美を見つけた岡本太郎が「芸術は爆発だ」と言ったのはこの意味だ。

グールドはまるでチャーリー・パーカー



のような雰囲気で弾く。圧倒的なテクニックだ。チャーリー・パーカーやバド・パウエルが狂気を孕んでいる、というのは納得してもらえると思う。グールドも同じだけど、やはりクラシックのピアニストだけあって、曲全体の構成を計算しながら弾いている。バッハは数学的な作曲家なので、神経質なグールドと相性が良かったのだろう。極めて理性的なのだけど、その理性と狂気が同時に成立しているところが天才だ。普通ピアニストは、コンサートの時にはそこに用意されたピアノを調律し直して演奏するけど、グールドは自分のピアノをコンサート会場まで運んでいた。特別に調整されたピアノだ。鍵盤に指を触れただけで音が鳴ってしまうように調整されていたらしい。早く弾くためにはそうしておく必要があったのだろう。でも、そんなピアノは一台きりの特注品だし、楽器メーカーとグレングールドが協力して何年も掛けて作り上げるような代物だ。そんなピアノをトラックに載せて持ち運ぶなんてことは、あまりにも現実的ではないし危険過ぎる。そして実際ある時、トラックから演奏会場に運搬している際に運送会社のミスによって壊れてしまった。ある時からグールドがコンサートを止めてしまったのはそのせいかもしれない。そして協奏曲を弾くこともしなくなってしまった。一人でスタジオに籠り、ピアノソロだけを録音するようになった。そのようにして発表されたのが2度目の録音のゴールドベルク変奏曲という傑作だ(ちなみに、グールドのファーストレコーディングもこの曲だった、聴き比べてみて欲しい)。そしてこの演奏がグールドの遺作になってしまった。まだ50歳という若さでだ。


そしてこのようなグールドの姿勢は、仏教の修行とも通じると私は思っている。グールドが自分のピアノしか弾かなかったように、仏教の修行でも自分なりの修行の仕方があっていいと思う。ただ、どれだけの確信を持ってそれを続けられるかで、重要なのは、それを自分自身の足で歩くということだ。お釈迦さまもダライ・ラマ法王も、「信じるのではなく、自分の足で歩きなさい」と仰っている。

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