奥の細道を求めて

仏を求める旅

ヴァラナシ その他

Baranas Hindu University(B.H.U.)

2つの大学に行った。その1つがここBHU。

ホテルからリクシャーで30分くらいだろうか。ここはとにかく、やたらと広い。アジア一の広さだそうだ。とても歩いてはいられないのでアチコチにリクシャーが止まっている。私は最初歩いて図書館を探しに行ったのだけれど、辿り着くまでにたっぷり1時間以上もかかってしまった。とても歩ける場所ではない。別の日に音楽学部のパフォーマンスホールという所にも行ってコンサートを聴いたけど、その場所を探し当てるのにもやはり1時間かかってしまった。ここの学生でさえ、広すぎて個々の建物の場所を知らないのだ。

でも、とてもいいコンサートだった。両側の弦楽器が途切れることなく低音で通底し、兄弟のヴォーカルが主に掛け合いで神への賛歌を歌う。精神的な雰囲気で、まるで音楽による瞑想のような印象だった。総勢三組の有名な演奏者が出演し、5時間くらい演奏して、しかも無料。これが3日間続く。騙されてばかりのインドでとても信じられない。


Central University of Tibetan Stadies(C.U.T.)

もう1つがCUT。

ここはサールナートの公園の近くで、オートリクシャーで1時間くらいの場所にある。ここがインドとは信じられないくらい、とても静かで美しい。

BHUとは違って小ぢんまりとしている。法王様もいらした事があるそうだ。菊の花も咲いている。インドで菊を見るとは思わなかったけど、もしかしたら、日本からの贈物かもしれない。

2つの大学とも本を探しに図書館に行ったのだけど、どちらの図書館もとても親切に対応して頂けた。BHUでは、一番偉い(たぶん)ライブラリアンの広い個室に通されて、その本ならCTUにある、と調べてもらい、CTUではあいにく貸出し中だったけど、時間があるなら戻り次第連絡します、と言ってもらって、次に来た時のためにその本の管理番号まで教えてもらえた。まるきり観光客の私でさえこうなのだから、当時、何年もの苦しい旅をしてやって来た三蔵法師はさぞかし丁重なもてなしを受けられたことだろう。有難いが、本は縁がなかったものと、ここでは諦める。


サラスヴァティー

1月30, 31日はサラスヴァティーのプージャー、お祭りで、町のあちこちに

このような神像が作られ、大きく音楽が流されている。サラスヴァティーには私も初回からお世話になっているので、一緒にプージャーをする。

その近くに木が生えている。私は木が好きで、日本でも有名な木をあちこち見に行ったものだ。インドも木を大切にする。小さな祠があるので、おそらくこの木の為のものだろう。でもそのくらいならいっそ、ここに建物を建てなければいいのにと思うけど、切らずにしかも建ててしまうというのがいかにもインドらしい。良くも悪くも、部外者から見るとなんでもかんでもゴッチャに見えてしまう。

これはCUT構内にあったバニヤン樹。おそらくこれで一本の木だ。枝から気根を生やし、それが地上に降りて幹のように成長する。コルカタの植物園で、まるで林のように見える一本の、周囲数百メートルもある世界一のバニヤン樹を見た事がある。


追記 : サールナートと言えば初転法輪だけど、これについては既にどこかで書いた気がする。でもこのブログではなかったかもしれないので簡単に私の考えを記録しておきたい。

学者の間では、お釈迦様がブッダガヤーの菩提樹下でお覚りになった内容は「縁起」である、というのが定説になっているらしいが、私はそれには反対で、それは「空」であった、と考えている。もしそれが「縁起」であったなら、なぜお釈迦様は「これは誰に説いても理解されない」とお考えになったのだろうか。「縁起」は世俗諦なのだから、説明すれば理解されるはずだ。それが「空」だったからこそ、言語化できず、誰にも理解できない、とお考えになられたのだ。10 年前、私がブッダガヤーからヴァラナシまで自転車で来た時には、ゆっくり走って4日かかった。急いで歩いたらおそらく7日だろう。歩きながらお釈迦様は、どうしたら「空」を言語化できるだろうか、とお考えになられたに違いない。その結果が「四聖諦」だったのだと思う。輪廻が苦であることを説き明かし、そしてそこからの解脱の具体的な方法(八正道、最初「八正道」と聞いた時、なんだ当たり前のことじゃないか、と思ってしまったが、今思うと、「正」というのは「空」と矛盾しない、という意味だったのだろうと思う)をお示しなされたのだ。そしてそれが今、大乗仏教で理解されている「縁起」の原型だった、と私は考えている。でも「十二支縁起」だと焦点がぼやけてしまう気がする。それを修正したのが龍樹で、「縁起」を「相互依存の関係性」であると規定した。これによって「空」と「縁起」が表裏一体のものとなり、お釈迦様の本意に戻ったのだ、と私は理解している。

×

非ログインユーザーとして返信する