奥の細道を求めて

仏を求める旅

バンコクの宿のレストランで逢ったイタリア人 、言葉に関する考察

日に焼けていて、最初は西洋人だとは思わなかった。タイ人とフランス人の混血だろうと思っていたが、国を聞くとイタリィーだと言う。私が日本人だと言うと、とたんに親しげに話しかけてきて、東京、京都、北海道、と言う。みんな行ったことがあり、恋人は京都に住んでいる日本人らしい。彼はまだ30代だろう。東南アジア諸国を旅して回っていて、ベトナム、カンボジア、ラオスと、私が巡った国にも行っていた。

私が話した時にはすでにかなり酔っ払っていて、呂律も上手く回らなかったけど、なんとかコミュニケーションを取ることができた。中国、韓国にも行ったらしい。でもその中でも、日本がベリー、ベリー、ベストだと言う。日本で恋人が出来たのだから、そりゃそうだろうな。でも日本語は簡単な挨拶くらいしか出来なかった。せっかく恋人が日本人なのだから、もっと日本語を勉強すればいいのにと思うけど。

でも、日本語は数ある言語の中でもとりわけ難しい言語だと私は思う。文字だけでも3種類あり、表意文字と表音文字が混在していて、会話では男言葉と女言葉が別で、敬語の体系は丁寧、尊敬、謙譲に分かれている。例えば、「食う」という言葉は丁寧では「食べる」と言い、尊敬では「召し上がる」、謙譲では「頂く」と言う。こんな複雑な言語を私は他に知らない。サンスクリットも複雑だけど、あくまでも論理的にできているので規則さえ覚えてしまえば問題はない。でも日本語はその時その場の状況に応じてそれらの言葉を使い分けなければいけない。しかも漢字の発音は何種類もある。こんな複雑な言語は他にない。

でも、だからこそ、日本語は美しいのだ。刻々に変化するからこそ、その可能性が無限に広がる。

日本語に似ているのはチベット語だと思う。チベット語もあまり論理的にはできていないので、その時々の状況に応じてその意味も変化する。ダライ・ラマ法王が、仏教を学ぶならチベット語を学んで欲しい、とおっしゃるのはその意味だと思う。「絶対的な真理」「時間を超越した真理」は仏教には存在しないので、状況に応じて意味が変化するチベット語がそれを表現するのに相応しいと思う。日本語と違う点は、チベット語の品詞は流動的で、動詞が名詞になったり形容詞になったりもする。最初は戸惑うけど、これこそが最も重要な点だと私は思う。私は仏教を記述する際には、名詞を使うべきではないと思っている。前にも書いたけど、名詞は事柄を固定してしまうので、実在を否定する仏教には向いていない。チベット語は時間を記述できる言語である。そしてそれが縁起だ。時間の流れを理解しなければ仏教を理解することもできない。縁起の本質は時間である。

ところが、空を記述できる言語は存在しない。空においては時間は停止しているのだから。

でもこの場合、ではどうやったら空を記述できるのか、という反論もある。涅槃は空でもあり縁起でもあるのだから、この反論は正当でもあり不当でもある。重要なのはこの矛盾をいかにして止揚するかという弁証法的問題だ。そしてそれは各個人がそれぞれ自分で解決しなければならない問題であるので修行、瞑想を実践することが何よりも重要である。

日本語で仏教を記述する際には、日本語を修正しなければならないと思う。チベット語のように動詞、形容詞、名詞が流動的に変化するように修正する必要がある。そのためには、「チベット語」ソシュールの「一般言語学講座」フッサールの「現象学」「唯識」が参考になると思う。

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