奥の細道を求めて

仏を求める旅

シルバー・パゴダでの会話

日本は大乗仏教であるのに対し、東南アジア諸国は上座部仏教である。昔は大乗の反対語として小乗と呼んでいたが、これは貶称で差別用語だから今は使われていない。上座部は伝統を重んじる戒律に厳しい仏教であり、経典は原始仏教パーリ語のダンマパダやスッタニパータを用いている。それに対して大乗は戒律に甘く、般若経以降のサンスクリット経典に基づいている。ダライ・ラマ法王猊下は大乗、上座部という昔の区別よりもむしろ本質的な違いを明確にするためにはサンスクリット仏教、パーリ仏教と呼んだ方がいいと仰っている。

カンボジアはそのパーリ仏教の国だ。私はサンスクリット仏教しか知らないのでとても興味がある。特に仏教の四法印の一つである「諸法無我」をパーリ仏教ではどのように解釈しているのかを知りたい。私は今、チベット仏教中観派を勉強しているのでこれを「無自性、空」と理解しているが、パーリ仏教では無自性は認めないらしいので、おそらく「我執」という意味で解釈しているのだと思う。もしそうであるなら、議論をして相手を打ち負かしたいと思っているのだけれど、とてもそんな難しい議論は私の貧弱な英語力では無理だろうと思う。

そこから、シルバー・パゴダでのお坊さんとの会話になる。30才くらいの若い二人のお坊さんが歩いて来たので、合掌をして「質問をしたい」と申し出たら、こころ良く応じてくれた。いきなり議論を吹っかけるのは失礼だと思い、まずは相手をおだてて、日本の坊主の悪口を言ってみた。「日本の坊主には戒律なんて何もない。妻帯するし肉魚を 食いおまけに酒を酔っ払う迄飲んでしまう坊主がたくさんいる。それに引き換え上座部では戒律を完璧に守っている。なんて素晴らしいんだろう」と。その後でおもむろに「上座部では、諸方無我、をどのように解釈しているのでしょうか」と聞いてみた。間違いがあってはいけないので私の下手くそな英語を覚えている範囲で書いてみる。' In Buddhism, there were 4 darma sighn. that one, 'evrything has no myself' what is this mean? teach me please ! 'で通じるだろうと思ったのだけど、残念ながら通じなかった。相手は日常の細々とした規則を教えてくれるだけで、肝心の質問には何も答えてくれなかった。四法印を知らないはずはないのに。なぜだろうと疑問に思ったところで昔読んだ本を思い出した。上座部の国々では、男は一生の内に一度は僧籍に入らなくていけない、というのが常識になっているらしい。その期間は短くて半年、長くても三年くらいだと読んだ記憶がある。そんな一時的な坊さんなら、四法印を知らないのかもしれない。長老を探さなければならないのだろうか。

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