奥の細道を求めて

仏を求める旅

ライブラリーの新学期

寒烏

ライブラリーの新学期が始まってもうひと月が経つ。もう4年目なのだけど、私のチベット語はちっとも上達しない。私がいるクラスはチベット語の Higher intermediate class というところで、日常会話には困らない程度の実力の人を対象にしているから授業の大部分はチベット語で進められる。ところがこの私はその会話の大部分が理解できないので、今何が話題になっているのかも何故みんなが笑っているのかも分からないことが多い。これはなかなかに辛く落ち込んでしまう。クラスの生徒は14人で私以外は全員女性だ。


女性の方が信仰心が篤く語学を得意にする人も多いようで中には日本語を話せる人もいる。女性の方が縁起に親和性が高いのだろう。赤ちゃんを産み育てるという女性の特性が遺伝子的に会話能力を高めているのかもしれない。私は男でしかもコミュ障なので会話が苦手だ。私は本を読むように会話するので、話しの筋を追いかけて論理的にそれに対応するような応答をしてしまう。そんな私は読み書きと会話は本質的に違うものだと思う。本を読んだり文章を書く時にはいくらでも立ち止まって時間をかけられるけど、会話で重要なのは応答速度である。女性同士の会話を聞いていると、テーマを論じることよりもむしろ会話のやり取りそのものを楽しんでいるように思える。キャッチボールと同じで重要なのはテンポでありそこに楽しさが生まれる。翻訳アプリで会話できないのはそこにはテンポが生まれないからだ。チベット語の授業でも私は文法を理解することに重点を置いていて理解できたらそこで終わりにしてしまう。しかし語学でも仏教修行と同じように聞思修が重要で、思によって理解し修によって繰り返し身体に馴染ませないと自由に使えるようにはならない。日本語だって使わないと忘れてしまうくらいだ。会話が縁起を生むのである。他者との関わり合いの中で縁起は生まれる。そして会話は人間同士の間だけに限らず愛着のある動物や植物との間にも生まれる。さらにそれは生き物の枠を超えて無生物との間にも生まれる。長年使っているペンなどは何も言わないけど、私がそれを使う度に私に応えてくれる。これを会話と呼べるのかどうかはよく分からないけど、少なくとも私にとっては会話である。万物に神が宿るという神道の考え方もこういうことが源流なのではないだろうか。愛着を込めて長年使っていればそこには魂が宿る、と考えられていて付喪神などはその良い例だろう。日本独自の本覚思想はこの神道の思想を引き継ぎ発展させたものだと思う。インド仏教や昔のチベット仏教は覚りを啓く可能性を人間の男にしか認めていないけど、本覚思想では「山川草木悉有仏性」と言って無生物にも成仏の可能性を認める。縁起というのは本質的にこういうことなのだろう。それは相互依存であり日常生活のことでもある。

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