奥の細道を求めて

仏を求める旅

真鍮の置物


先日マクロードガンジの土産物屋で金もないのにこんな物を買ってしまった。でも、見ているととても面白い。


女性をこのように表現した例を私は今まで知らない。この像は現実と幻想の狭間に成立している。以前紹介したアルチのグリーンターラーや応挙の藤花図とも同じだ。幽霊画を描いている松井冬子に通じるところもある。

でもこれが何か、何を表現しているのか、作者の意図は何なのか、などはさっぱり解らない。でもそれは大した問題じゃない。何故なら、この像はもしかしたら私自身なのかもしれない、という気がするからだ。

私が初めてインドに来た時のこと #7

忘れていたけど、もう一つ重要な場所があった。霊鷲山だ。


意味は禿鷲の山。頂上に禿鷲に似た大きな岩がある。平地からの高さは200mくらいだろう。マガダ国の王様も礼拝しに来たので広い道もある。ここでお釈迦様は多くの経典を説いたと伝えられているのだけど、説法座は写真からも判るように決して広くない。2,30人で一杯だろう。説法座の下には岩をくり抜いた宿坊もある。その当時この工事は大変だったに違いない。ここにはおそらく選ばれた弟子だけがいたのだろう。たぶんシャーリプッタ、モッガラーナ、カーシャパ、アーナンダなどなど。当時からこれほど整備されていたとは思えないけど、少なくても雨露を凌げる場所はあったはずだ。霊鷲山の麓にはおそらく人が掘ったと思われる洞窟も多くあるから、他の弟子たちはそこで修行していたのだろう。


霊鷲山の隣にはもう一つ少し低い山もあってそこにも登ってみた。頂上から見ると少し離れた別の山にジャイナ教の寺も見える。尾根づたいに行けないかと思って見ると、高いフェンスが張り廻らされその下は断崖絶壁になっていた。私はもう充分生きたから死ぬ準備はできている。誰も見ていないのを確かめてからフェンスを乗り越えて崖の縁に立ってみた。後ろのフェンスに指を掛けて見ると垂直な崖で下の林までは100mくらいありそうだ。私の身長分くらい下に両足を乗せられそうな小さな石が突き出ている。私は既に死の恐怖を乗り越えた、という自負があったので崖の岩にしがみつきながらその石の上に立ってみた。10分くらいそこで瞑想できると思ったのだけど、実際にやってみると3秒も耐えられなかった。下を覗いた途端、全身の毛穴が一瞬に開き冷や汗が吹き出す。手足が震えて止まらない。必死に身を捩って後ろの岩にしがみつき、汗で手が滑ってしまわないかと心配しながらなんとか息を切らしながら崖の上に寝ころんだ。頭では死んでも良いと納得していたけど、身体がそれを拒否したのだ。死に近い今、それは良い経験だったと思っている。


ここで無意識を発見したフロイトについて考察したい。私たちは普段、意識的/理性的に判断をしていると思っているけど、フロイトはそれが間違いであることを明らかにした。反射的に判断する無意識が私たちの行動を決定しているのである。生き物にとっては死なないことが最優先なので、生き延びるための本能が私たちの行動の根本を決定している。フロイトはそれを明らかにした。

フロイトへの批判としてよく聞くのは、エロスだけではなくタナトスという死への本能を認めたことだ。フロイトはレミングというネズミの一種が集団自殺することを知って、生/性への本能だけではなく死への本能もあるのだと確信した。でも現在ではレミングが集団自殺する事象は間違った観察だったことが判明しているけど、でも私はフロイトの直感は真実だったろうと思っている。何故なら、萩尾望都が『ポーの一族』で解明したように、永遠の生は望ましい状態ではないからだ。不老不死を願う人は多いだろうけど、それが実現してしまったら自分の意思で死ぬこともできない。私は自由という価値を最優先するので、自由が制限されてしまうような状況は望まない。でも意思を無意識が決定しているなら、人間には自由意思が存在するのか、という西洋の古い問いが再び浮上する。でも仏教からすればこれはさほど困難な問題ではない。

人が自由意思を行使できないのは縁起においてだけで、空ではそうでないからだ。縁起とは世界との繋がりのことなので、そこでは人との会話が基礎になっている。会話において最も重要なのはスピードで、反応が遅れると会話は成立しない。なので会話を成立させるためには反射的に対応しないといけない。そのような状況では私の自由度は下がり、無意識(仏教用語だとアーラヤ識、あるいは無始劫来の薫習)に任せた方が効率的だ。他方空には私自身の意思でしか入らないので、そこに(神や無意識や他者のような)一切の拘束は無い。空とは絶対的な自由という状況である。でもそうだとすると、そこには「私」という制約もないだろう。「私」とは縁起(他者との関係性)の中だけで成立する事柄なので空においては成立しない。ならその時、自由意思という「私」を前提にした概念は意味を成さない。なので西洋哲学の難問である神(決定論/運命)と私の自由(可変論/不確定性)との矛盾という問題は仏教には成立しない。とは言え、仏教哲学の中では縁起と空を巡る考察は西洋哲学に対比するほど単純ではない。「私(縁起)」が成立する状況と成立しない状況の境目は明確ではないからだ。瞑想において難しいのがそこで、縁起を無/死と対比すれば生と死の明確な境い目として理解できるのだけど、空(無と縁起の融合)にはそれがないので難しい。

ダラムサラの春


庭前桜花開

泰然雪山見

此処天竺於

何処彼岸求


子どもたちは歌い踊り

老木はそれを見守る

鸚鵡たちが若木の枝を飛び交い

孤独な鳶は餌を求めて山々を巡る


先日ライブラリーに通う途中でイギリス人のお婆さんに会った。少なくとも80歳は越えていると思う。ダラムサラに住んで38年経つと言っていた。今の彼女が85歳だとすると、ここに来たのは47歳の時のことになる。若い頃には世界中を旅した、と言っていた。カナダ、シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイ、等々。その中でもインドのダラムサラが最高らしい。毎日坂道を散歩しているからこの歳でも元気でいられる、と言ってファイティングポーズをとり、それを話す表情はとても生々していた。