奥の細道を求めて

仏を求める旅

私が初めてインドに来た時のこと #1

私が初めてインドに来たのは15年くらい前の52歳頃だったと思う。最初の海外旅行でインドを選ぶ人は少ないだろう。しかも仕事が急に空いたので何の下調べもしないで来てしまった。ヒンディーはまったくできず英語もカタコトだ。後でガイドブックを読んだら、インドでこれだけは絶対にしてはいけない、ということを全部やっていた。騙されたことも多いけど、私は実際に経験してみないと解らないので良い体験になったと思う。休暇は半年でビザも半年有効なので帰りの便はギリギリの飛行機を予約しておいた。これが後々大問題になるのだけど、その時のことはその時が来たら話そう。ともかくその時はワクワクしていて、私もついにお釈迦様が歩いた道を歩くことができるという期待でいっぱいだった。でもそのためには田舎も回るので、インドカレーが食えなくては話しにならない。でも日本で食べていたカレーと本場のインドカレーはまったく違っていた。日本では決して入れない香辛料を使っていて、匂いがダメで慣れるまで一ヵ月も掛かってしまった。私が拠点にしたのはブッダガヤーで、もちろん言わずと知れた仏教最大の聖地だ。でもここから仏跡を巡るには地図が必要になる。私が最初に降りたインドのコルカタ


最大の本屋で探したのだけど、何故か仏跡の一番多くあるビハール州の地図だけが見つからなかった。でもまぁブッダガヤーに行けばそこの地図なんて簡単に見つかるだろうと思っていたのだけど、ビハールの小さな村のブッダガヤーにはそもそもまったく本屋が無いのに驚いた。後で聞くとビハールはインドの中で教育水準が最も低い州で貧しい人も多く本を買う余裕など無いのだろう。そしてこれも後で知ったことだけど、インド人はそもそも地図を見ない。インド人がどこか知らない場所に行く時には行った先で、目的地にはどっちに行ったら良いの、と尋ねる。方向だけで距離や掛かる時間は教えなくても、大抵の場合は何とかなる。商人が旅する道は整備されているので、大きな道なりに進めばそれなりの食堂や宿屋もある。なのでインドでは地図を見るという文化がない。というかインドでは王国間の争いやイスラム勢力との戦争が私の知っている限りでも二千年くらい続いていたので、自国の地図を作ってしまうと相手国に有利な戦略を提供してしまう、という恐れがあったのだろう。もちろん今のインドは平和で、敵国は軍事衛星から地図を作ってしまうから地図を作らない意味はもうない。でもその伝統が今も続いているのだろうと思う。インド人は地図を見る習慣がないから地図を読むこともできない。なので大きな本屋に行っても地図は少なく、まして小さな町の本屋にはまったく置いてない。


ビハールは貧しい州なので物乞いもたくさんいる。私はインドでは物乞いに施しはしないと決めていたのですべて無視していたのだけど、今でも後悔している事例が一つだけある。誰もいないところで5歳くらいの痩せて目に力のない女の子が何も言わずに手を差し出したのだけど、それも私は首を振って断ってしまった。後で知ったことだけど、物乞いにも縄張りがあってそこから弾かれてしまった弱者にはもう生きる術がない。あんなに痩せこけて目にも力がない女の子に、私の先入観だけで施しをしなかったのは今で思うと悔やまれてならない。

私がブッダガヤーで地図を探して絶望的になった時、観光名所の大きな寺の前で観光客相手にインド全図を広げている10歳くらいの男の子に会った。ダメ元で「ビハールの地図はあるか」と聞くと、その子は「3分待ってろ」と言ってボロボロの大人用自転車に足だけ掛けて急いでどこかへ行った。本当に3分で戻って来るとその手にはビハールの地図があった。信じられなかった。絶望から希望の光が見えたのだ。値段を聞くと「200ルピー(当時300円)」だと言う。もちろんボッているのはわかっていたので「高いよ」と言うと「なら100ルピーでいいよ」と答える。それでも相場よりも高いのは明らかなので「それでも高い」と言うと、「いらないならいいよ」言って帰ってしまおうとする。表情でこちらの気持ちを読んだろのだろう。私は慌てて「チョット待て、それで買わせて頂きます」と言った。「1000ルピーでなければ売れないよ」と言われたら私はそれでも買ったのだけど、その子は嬉しそうな顔をして100ルピーを受け取った。その2,3日後その子が友達と一緒にいて私を横目で見て「俺はあいつに(ほぼ需要のないビハールの地図を)100ルピーで売ったぜ」と自慢気に話していた。それから一週間くらいして、もう一度その子に会うと「ビハールの地図がもう一枚あるから買ってくれないか」と聞いて来た。値段を聞くと同じ100ルピーだと言う。私は「もう持っているんだからいらない」というと「これは50で良い」と言う。「もう持ってんだからいらないって言ってんだろ」と強い口調で言うと「なら10で良い」と言う。10ルピーなら予備に買って置いても良いと思って買って置いた。ところがこれが、実際に使ってみると100で買った地図は距離の表記がデタラメで、それに対し10の地図の距離表記は正確だった。私は日本の感覚で地図の距離表記なんて全部同じだろうと思っていたけど、インド人には地図の需要がないので粗悪な地図もあるんだということを知った。今ではあの男の子には悪いことをしたと思っている。

シュレーディンガーの猫、生と死の重ね合わせ、縁起と無と空

量子力学と仏教哲学との親近性について考えてみたい。


シュレーディンガー


は量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式を23歳の若さで完成させた天才だ。でも自分で作った方程式を解いたら、その結果は常識とはかけ離れたものになってしまった。でも方程式に間違いがないことは確認済みなので、その結果を疑うことはできないのだけどそれを、身に染み付いた常識は受け入れることができなかった。それでその違和感を表明するために「シュレーディンガーの猫」という有名な思考実験を考案した。その内容は、密閉された箱の中に一匹の猫を入れておく。そこに1時間後に50%の確率で崩壊する原子も入れて置く。原子が崩壊したらガイガーカウンターがそれを検知して毒ガスが発生するような装置を作っておいて、さて1時間後に猫は生きているのか死んでいるのか、を問う思考実験だ。


確率で記述するシュレーディンガー方程式の解によれば、蓋を開けるまで猫は50%ずつの確率で生きている状態と死んでいる状態が重ね合わせられていて蓋を開けた時点でそれがどちらか一方に収束する、という解釈になる。でも常識では、見ていてもいなくても猫は生きているか死んでいるかのどちらであり、人が蓋を開けて確認したことによって猫の生死が決定される、なんてことはあるはずがない。現実は客観的なものであり、人が確認するかしないかで現実が決定されるなんてことはあり得ないと思うし、この方程式を作った本人でさえそんな結果を受け入れることができなかった。でも現在では、それは受け入れなければならない前提である、と大多数の物理学者は考えている。


まったくの余談で下世話な話しだけど、天才は往々にして人間としてはロクでもないヤツが多い。シュレーディンガーはその代表格の一人で女にだらしがなかった。結婚しているのに愛人を作り子供を生ませてしまって、さすがに常識のないシュレーディンガーも責任を取らなければいけないと思ったらしい。だけど金がないので彼は愛人と子供を自分の家に連れて来て妻と一緒に住まわせてしまった。でも愛人と妻の関係は良かったらしい。互いにシュレーディンガーの悪口を言い合って盛り上がったんじゃないだろうか。さらにその数年後、大学の職に就いた時、教え子の女学生二人も妊娠させてしまった。シュレーディンガー方程式を数学的に完成させるまでにはいくら天才でもとんでもない時間が掛かるだろうに、女を口説くためには時間を惜しまなかったらしい。しかも相手のために避妊する手段さえ取らなかった、というのは私には理解できない。でもまあ人の悪口はこのくらいにしておいて本題に戻りたい。


仏教でも生と死の重ね合わせ、が主張される。私は禅宗でしか見たことがないけど、書で生と死という文字を重ね合わせて書いてある作品がある。矛盾したことの重ね合わせを言葉で表現するのは難しいので書として表現したのだろう。決定論を嫌う仏教は生も死も固定した状態とは考えないので納得できる。仏教用語を使うなら生は固定した有であり死は固定した無である。この生と死、有無の矛盾の重ね合わせを空と呼ぶ、と私は考える。論理を重視するチベット仏教ゲルク派では矛盾を回避するために有無の両極端を離れた別のあり方としての中道を主張するけど、私はそのような別のあり方としての空ではなく、矛盾の重ね合わせとして空を捉えた方が良いと思う。矛盾を矛盾のままに受け入れることが空ということじゃないのだろうか。禅の影響が強いニンマ派でもこのように考えている、と私は思う。

人は生まれながらに矛盾を内包している。芥川龍之介の『河童』にも語られているように、人は自分の意思で生まれたのではないにもかかわらず生まれてしまえば生に執着してしまう。もし生まれる前に生まれるか生まれないかを選択できるなら、生まれない方を選択する人もいるだろうに私たちは強制的に生まされてしまう。そして欲望と争いに満ちた世の中に絶望して死を選ぶ人もいるだろう。芥川龍之介はそのような人だったのだろうと私は思う。でも本来的に矛盾を内包した仏教はそのような人にも空というあり方で生きる道を示してくれている。

冬休みと料理と仏教修行

12月14日にダラムサラのライブラリーでの一年の授業が終わった。


この写真はチベット語クラスの終了記念写真で、中央のグレーのダウンコートを着た女性が先生だ。とても熱心で教え方も上手く、質問すればこちらが納得できるまで丁寧に教えてくれた。なので来年は同じ先生のワンランク上の授業を受けてみたいと思っている。

というわけで来年の3月に新学期が始まるまでの間、長い休みに入ってしまった。ヒマができるとやることは美味いものを食うことなので、ダラムサラで手に入る食材や調味料でいろいろ試している。最近ハマっているのが鯖缶料理で、日本では一度も鯖缶なんて使ったことがなかったのにここダラムサラでは三日に一度くらい使っている。もともと私は魚の臭いが苦手なので魚料理は作らなかったのだけど、インドでは肉を手に入れにくいので、その代わりに鯖缶を使っている。魚の臭みを抜く方法はYouTubeで調べると色々あって、酒と生姜がその代表的なものであるらしい。実際使ってみると酒が最も効果的だった。アルコールが飛ぶ時に魚の臭みも一緒に連れて行ってくれるらしいので、たぶん何かの化学的な反応なのだろう。最初に作ったのが前にも紹介した鯖缶トマトカレーだけど、今回は野菜カレーで、鯖缶、玉葱、ピーマン、茄子を煮込んでガラムマサラで味付けした。


これもとても美味い。鯖の臭みのない旨味と玉葱の甘さとピーマンのシャキシャキと茄子のトロトロ具合が絶妙に合う。とは言え前回のトマトカレーには敵わなかった。たぶん今回はトマトを炒めて入れなかったので旨味のコクが足りなかったのだろう。インドカレーには味のベースとして炒めた玉葱とトマトが必須だということを知った。味のベースを作った上で香辛料で味付けする、というのは和食で出汁をとってから醤油や味噌で味付けする過程と同じなので理解しやすい。昆布出汁と鰹出汁の相乗効果のようなものが玉葱とトマトにもあるのだろう。


次に作ったのは鯖のそぼろご飯だ。鯖缶を煮詰めてそぼろにしそこにご飯を混ぜて、上に炒り卵とキュウリ(みたいなもの)の塩揉みを乗せ大根の葉の炒め物を添えてみた。大根の葉は日本では切り落とされてしまうけど、インドでは付いたまま売られているので嬉しい。これだけをご飯に混ぜて青菜ご飯にしても美味いだろう。大根の葉はすぐ萎れてしまうから、新鮮なものを見つけた時に試したい。鯖と卵の旨味にキュウリの爽やかさが加わってとても美味い。鯖缶と一緒にネギも炒めたらもっと美味かったかもしれないので、次は試してみたい。


と思って翌日余った分をマギーのチキンストック(スープの素のようなものらしい)で煮てネギを散らしてみたら、予想通りとても美味い。付け合わせのキュウリ(みたいなもの)の漬物とも良く合っている。ということで、数日後に新鮮な大根を見つけたのでブリ大根ならぬサバ缶大根を作ってみた。


やはり美味い。翌日青菜ご飯も作ったらこれも絶品だった。


大根そのものよりも大根葉の方が美味いくらいだ。一番最近作ったのが鯖缶の南蛮漬けで


そこそこ美味いけど初めて作ったから反省点も多い。もっと美味くできたはずだと思うので、次はまた良く考えてから試したい。


そして料理のこのような試行錯誤は仏教の修行と同じだと私は考えている。レシピ/教えを聞き(聞)、自分なりにどうしてこれが美味いのかの仮説を立てて(思)、実際に料理(修/瞑想)してみる。上手く行かなければ思/解釈の仕方を変えてまたやって(修して)みる。それでも上手く行かなければ別の教えを参照(聞)して改善のヒントを探す(仏教では先生を変えることは否定的なことではなく自身の成長のあかしと捉えられているので先生もお祝いしてくれる)。そのように長い時間をかけて料理は美味くなり修行は完成に近づく。

でもこの意見には反論もあると思う。料理の場合は実際に食べてみて美味いか不味いかが判断できるけど、瞑想で思の正誤をどうやって判断するのか、という反論だ。

以下に述べるのは私の個人的な考えなのでその上で、瞑想にはいろいろな方法があってその一つが思考実験という方法だ。思考実験は理論物理学で使われる方法で、実際に実験できないような状況で仮想的な状況を設定してそこで仮説が成立するかどうかを検証する、という方法だ。物理学の場合は前提(観測された事実)と思考実験の結果の間に数学(論理)的な矛盾が有るか無いかで判定するけど、仏教の場合はその状況が空というあり方に矛盾しないかどうかで判定する。仏教の基本理念の一つが空なのでそれを判定基準にする。縁起は時間的に変化し種々雑多であり間違った縁起の組み方も多いので、それを変化しない空を基準にして選別する必要がある。仏教では空が縁起の判定基準になる。ナーガールジュナやチャンドラキールティが空を強調するのはこのせいなのだろう。


蛇足だけど、禅問答は何を言っているのか解らない、という不満をよく聞く。質問というのは一般的に現実の存在の有無や論理的な整合性の根拠を問うのだけど、禅問答ではその縁起に関する質問が空とどのようにしたら折り合えるのか、を答えている。例えば「父母未生以前汝本来面目」という禅の公案がある。この意味は、あなたの父母が生まれる前のあなた自身とは何か、という問いだ。常識的に考えるなら、私の種さえ無いのだから答えは無になるだろう。でも仏教では無を否定するのでこの答えも否定される。そこに何らかの関係性/縁起を見つけないといけない。そこである人は「池に飛び込んだ蛙の水の音」と答えた。つまり、本来の私とは水に飛び込んだ蛙の水の音のようなものだ、という意味でそこには存在がないにも係わらず無でもない。つまり私という本体は存在せず関係性の中の結び目である、という意味だ。縁起を存在の有無や論理の整合性(チベット仏教では違うけど)によって評価するするのではなく、空との折り合いの良し悪しで評価する。でも、それでは空を悟っていなければ判断できないじゃないか、という反論もあると思う。でもそんなことはない。空は実在と無の両方を否定することだけだ。多くの場合私たちは目の前にあるものを現実に実在するものだと思い込んでしまうけど、そのような思い込みを捨てるだけでいい。常識という枷を取り払い、しかも無に落ちないというあり方が空ということだ。そのように考えれば禅問答は訳の解らないものではなくなる。