奥の細道を求めて

仏を求める旅

私が初めてインドに来た時のこと #4

この頃には一ヵ月くらい経っていたので、インドの交通事情も分かってきた。インドの民間の交通規則は単純で、ぶつかった時に勝つ方が優先だ。痛い思いをしたく無ければ、そう思った方が道を譲る。なのでインドには歩行者優先などという概念はない。チャリで移動している時も、霧の深い朝に舗装されている部分を走っていたら通勤途中のインド人に、そんなとこ走ってたら轢かれて死んじゃうよ、と注意された。気を付けて見ると皆んな走り難い道路脇の砂利道を走っている。車はライトを遠目にして、こちらに気がつけば避けて走っている。危ないのは間違いない。なので私もその列に加わって砂利道を走った。

視界が良い時には比較的安全なのだけど、それでも事故が起きてしまった時には車は逃げてしまう。警官が来ると面倒だからだ。加害者から賄賂を要求するし、それが自分よりも下位のカーストであれば棍棒で殴る蹴るなんてことは当たり前だ。なのでインドでは事故が起きても警察を呼ばないし、見ても見てないフリをして通り過ぎる。私もそんな事故に会ったことがある。タクシーと牛車に挟まれて道の真ん中で倒されてしまった。朝だったのでひっきりなしに通る車やバイクは倒れている私とチャリを避けて通り過ぎるだけで、誰も止まって助けてくれる人はいない。その時はインド人は皆んな冷たいのだと思ったのだけど、今ではその時の彼らの気持ちが良く解る。


インドの町は職種ごとに分かれているところが多い。その方が仕入れや出荷に便利なのだろう。町同士も離れているから隣町ともあまり交流がない。そのせいかどうか、インドは町ごとに人の性格も違う。私のような見たこともない日本人にもとてもフレンドリーな町もあれば、見下して差別するような目で見る町もある。でもそんな極端な町は少なく、大抵はその中間にある。そんな田舎町の一つでホテルを探したのだけど見つからない。道行く人に聞いても答えてくれない。もちろん田舎で英語を話せる人が少ないからなのだけど、そんな時一人のインド人が応えてくれた。「ホテルを探してるの」「そうなんだよ。ホントに困ってるんだ」「快適な高いホテルの方が良いの、それとも安ホテルでも良いの」「安ホテルでお願いしたい」。すると彼は一軒のホテルまで案内してくれて、その上交渉までしてくれた。ホテル側は外国人を泊めることはできないと言う。当時ムンバイで大規模なテロが起きた直後だったので、おそらく警察から外国人は泊めてはいけないという通達が来ていたのだろう。彼は「あの犯人はパキスタン人だ。こいつは日本人なんだからテロリストのわけがないだろ。お前もヒンドゥー教徒なら同じ仏教徒を助けてやらなくてどうすんだ」と説得してくれた。おかげで私はそのホテルに泊まることができて今でも感謝している。


別の町はヒンドゥーの聖地だった。小さな町なのでホテルが見つからない。近くで遊んでいる子どもたちに、安いホテルを知らないか、と聞くと一軒の家の前に連れて来てくれた。看板も何もない普通の民家で、子どもたちは遠慮もなく入っていくと「この人は日本人の仏教徒の巡礼者だから泊めてあげてよ」と言ってくれた。そこはヒンドゥーの巡礼者であれば無償で泊めてくれる施設で居間にはヒンドゥーの大きな神像が飾られていた。その家の主人は英語ができなかったのだけど気持ち良く泊めてくれた。翌日僅かばかりのお礼を渡してその家を出て、昨日の子どもたちに礼を言おうと探したけど見つからない。もう学校に行ってしまったのだろう。


また別のもっと小さな町で露天のチャイ屋に入ると、5歳と3歳くらいの兄弟が水の入った重いバケツを運んでいた。その子たちにキャンディを一つづつあげようとすると、何故か困った顔をしている。隣にいたおじさんが「それは食べて良いんだよ。マスターが来る前に早く食っちまいな」と言ってくれた。するとその兄弟は本当に嬉しそうにキャンディを舐め、包み紙を丁寧に折って大事そうにポケットにしまった。インドでは今でも人身売買が合法だ。貧しい田舎では子どもを育てられないので売るしかない。買った側は、子どもを学校に通わせなければいけない、という法律があるのだけど田舎でそんな法律を守る人は少ない。買った以上は最大限に利用しようとする。その子たちも学校に行く時間に働かされていた。学校に通えない子どもは日本にはいないだろうけど、インドには今でもたくさんいる。

私が初めてインドに来た時のこと #3

ヴァラナシは言わずと知れたインド最大の聖地だ。私は燃えている人の死体の間を歩いて渡り、泊まるところを探した。その近くのそこそこ清潔でそこそこ安い。焼き場に近いので毎日見に行くこともできて、人が燃える時にはプツプツ油が跳ねることを知った。金のない人を焼く時には生焼けのままガンガーに燃え残りの薪と一緒に流してしまう。インドでは死がすぐそこにある。私は日本で育ったのでその光景はショックだった。日本も西洋も死を隠してしまうから私達は死を忘れてしまいがちだ。でもそれは違うと思ってしまった。インドではすぐそこに死がある。

サールナートはヴァラナシ からチャリで1時間くらいのところにある。お釈迦様と一緒に修行していた五人の僧たちが、お釈迦様は修行に耐え切れなくて逃げたのだと、見限って新たに見つけた修行の地だ。漢訳では鹿野園と記されている。昔は鹿が多くいたのだろう。そこで語られた内容が四聖諦として碑文に刻まれていた。一番聡い人はその日に覚りを開き、一番遅い人でも一週間後に覚りを開いたと言う。四聖諦の内容は以前に書いたのでそちらを参照して欲しい。


巨大なストゥーパもある。アショカ王の時代に建てられたものだろう。イスラム勢力の侵攻によって当時の建物は遺跡しか残ってないけど


さすがにこの巨大なストゥーパを壊すのは諦めたらしい。面白かったのは博物館だった。



破壊され土中に埋められた遺物が発掘されて展示されている。私がとりわけ良いと思ったのは15cmくらいの小さな文殊菩薩の石像だった。一目見ただけで文殊菩薩と解る。象徴になるものは何も持っていないのに智慧第一と呼ばれる理由が小さな顔の表情だけで分かるというのはその作者の天才によるものだろう。しみじみと良い(当時の私はカメラもケータイも持っていなかったから記録を残せなかったのが残念だ)。とにかくお釈迦様はその五人を弟子にし、説法の旅を続けた。


私が次に向かうのは平家物語でも有名な祇園精舎だ。公共の交通機関を使うととても不便なところにある。私はチャリなので何の問題もなかったのだけど。インドではサヘートマヘートと呼ばれている田舎の村で、観光客目当てに祇園精舎だけが公園として整備されている。でもヒンドゥーの聖地ではないので有名ではなくインド人はあまり来ない。私が行った時には巨大な公園に誰もいなかった。


お釈迦様の説法座も残っている。


金箔が貼られた説法の座も諸王との謁見の間も土台はそのままだ。裏には寝室もあってお釈迦様はここで眠っていらっしゃったのかと思うと感慨深い。小さな寝室で慎ましやかだ。周囲には僧院も多く、同じくらいの寝室だけの建物も多くある。大部屋の寝室がないのは新しい発見だった。仏教は瞑想を修行の核とする個人主義なので大部屋は作らなかったのだろう。次はお釈迦様入滅の地であるクシナガラに向かう。サヘートマヘートからクシナガラまではかなりの距離がある。チャリで2ヵ月くらい掛かるだろう。なのでこの後しばらくは途中の旅の記述をしてみよう。

私が初めてインドに来た時のこと #2

最初私はブッダガヤーから


歩いて仏跡を巡る旅を計画したのだけど、日本人にその計画を相談すると全員が「それはあまりに危険なので止めた方が良い」と言われた。でもインド人に話すと「何の問題もないよ。俺の親父は行商でその辺を毎日歩いていたんだから」と言う。どちらが正解なのかは実際に試してみないと判らない。でも両者共に言うのは「野宿だけは決してしてはいけない」ということだった。インドにはカーストがありカースト外の人たちもいて、彼らは人間として扱われていない。職に就けないから食うために子供は物乞いやゴミ漁りをし女は売春をする。でも男はそんな屈辱的なことはできないので、夜に生きて自分の獲物を探す。無防備な日本人が野宿なんてしたら身ぐるみ剥がされてしまうと皆んなが言っていた。間違いないだろう。インドがそのような社会であることを今では良く知っている。


実際歩くと、2日目で挫折してしまった。インド人は鉄道の駅があるところならどこにでも泊まれるところはあると話していたのだけど、実際に行ってみたら田舎の小さな駅にそんなところはない。宿泊施設があるような大きな町は50kmくらい離れているので、次の町には早足で10時間くらい歩かないとたどり着けない。私にそんな体力はないのでそこで挫折してしまった。ブッダガヤーに戻って、ならチャリを使えば行けるんじゃないかと考えた。安い中古のチャリを探したけどロクなものがない。なら新車を買っちゃおうとガヤーの町に行こうとしたら、友達になっていた文房具屋の兄ちゃんに声を掛けられた。「どこ行くの」「ガヤーまで行ってチャリを買うつもりなんだ」「なら俺が毎日使っているヤツを貸してやるよ」と言われた。願ったりもない。それはオレンジ色のチャリで構造がしっかりしていた。これなら使える。4ヵ月を1000ルピー(当時のレートて1500円)で借りた。後ろのタイヤがボロボロだったので交換しチューブは前後ともに新品にして、旅の始まりだ。


最初に目指すのは初転法輪のサールナートだ。歩くと一週間くらい掛かるけどチャリなら三日で着くだろうと思っていたのだけど、現在の私の体力を考慮に入れていなかった。初日に着く予定の町に着いた時にはもう真っ暗になってしまっていた。暗い道を一人でチャリをこぐのは不安でつらい。町に着いたけどホテルがどこにあるのかわからない。道行く人に聞いたのだけど、聞いた人が間違っていた。この辺りでは有名な金持ちのお坊ちゃまであるらしい。彼は「ゲストハウス」でいいか、と聞いたので何の問題もないと答えたのだけど、連れて行かれたところは彼個人の友達のアパートだった。まだ帰ってないから少し待ってくれ、と言う。この辺りでヤバイと気がついた。待っていた時にアパートの一階のタバコ屋のおじさんが気づかれないように小さく手招きしたので、タバコを買うフリをして行くと「あそこに泊まっては絶対にいけないよ。ホテルに行きなさい」と教えてくれた。礼を言ってタバコを一箱買い、「私はもう疲れているから待てない。ホテルに泊まるよ」と言ったら、じゃホテルまで一緒に行こう、と答えた。3軒くらい回ったのだけど全て満室だと断られてしまった。こんな田舎のホテルが満室なわけがないのにね。彼と一緒だから断られたのは明白だ。礼を言って別れて一人で隣のホテルに行ったらすんなり泊めてくれた。

翌日は反省してまだ暗い朝早くに出た。次の町には午後3時頃に着いたのだけど、やはり英語が通じないのでホテルが見つからない。バスターミナル近くのホテルは満室だと断われてしまった。じゃ地元のインド人に聞いてみようと思って英語で話しかけたのだけど、誰も答えてくれない。最初私はインド人は皆んな英語ができると思っていたのだけど、田舎では英語を使えない人も多いことを初めて知った。そこでチャイ屋で新聞を読んで暇そうにしているお爺さんに話しかけると彼は英語が使えたので、相談していると近くにいた皆んなが寄って来た。そりゃそうだよね。こんな田舎に外国人が来ることは滅多にないんだろうから興味はあるよね。ワラワラと集まって皆んなで議論を始めた。「あそこのホテルが良いんんじゃない」「お前は馬鹿か、外国人があんな安ホテルに泊まるわけないだろ」などなど。もちろんヒンディーは分からないから類推だけどね。議論の末に勧められたホテルに行ってみると、外の壁全面がガラス張りの明るくて清潔な気持ちの良いホテルだった。スタッフのホスピタリティも良い。こんな田舎にこんな良いホテルががあるのは驚きで、気持ち良かったので2泊した。近所の食いもの屋も旨い。パクチーの入ったチャパティがとりわけ旨かった。そんなわけでその町にはもっといたいと思ったのだけど、先を急がなくちゃいけない。

その後は順調に行き無事サールナート近くのヴァラナシ に着いた。