奥の細道を求めて

仏を求める旅

数学とはどのような学問であるか

数学の数(存在)の体系は、自然数ー分数ー整数ー無理数ー虚数、と増えてきた。

例えば、1+1=2 であるというのは、それは 2 という数があるからで、もし 2 という数がなかったら 1+1 の答えはどうなるだろうか。

[余談だけど、エジソンは小学生の時「なぜ 1+1=2 なのか」という質問を先生にして、先生の「そう憶えてしまえばいいんだ」という解答に納得できず、学校を退学してしまったらしい。先入観でしか〈ものごと〉を考えられない先生よりも、小学生のエジソンの方が〈ものごと〉の本質を掴んでいたということだ。ろくでもない固定観念に囚われてしまっている教師達が数多くいる。そんな教師とは早く別れてしまった方がいい。本物の先生とは、生徒と共に向上しようとするパートナーのことだ]

その答えは 10(イチゼロ)になる。私たちは十進法に慣れているので二進法を直感的に理解するのは難しいけど、コンピューターは二進法で計算している。それはコンピューターの認識できる単位が 「0(ちなみに、インドでのゼロの発見が数学という学問を生んだ。サンスクリット語でゼロと空は同じ言葉だ) と 1 との2つしかないからだ(ちなみに、二進法で数えると十進法の 3 は 11 、4 は 110、5 は 111 になる)。でも数えることができれば、それで計算もできる。

数学は最小限の前提だけを仮定してそこから理論を組み立てる学問だ。その前提の内の一つが数という単位であり、幾何学では直線がそれに当たる。ところが、幾何学の内部で絶対的な前提だと思われていた基本定理の1つが近世になって崩れてしまった。それがユークリッド幾何学の平行線定理と呼ばれているもので、2本の平行線は決して交わらない、という定理だ。この定理はその世界が平面なら必ず成立する。でも現実の世界は(一つの可能性として)地球がそうであるように球体をしているので「直線は二点間を結ぶ最短距離である」という定義を認めるなら、地球という大きな球体の平面の上では平行線はいつかどこかで必ず交わってしまう。

そして代数学の内部でも、数の最小単位は 0 と 1 である、という前提は崩れてしまう。それが √(ルート)や π(パイ) のような数で、0 と 1 とに還元できない無理数という、鬼子のような数(ピタゴラスの苦悩の元、因みにピタゴラスは 0 と 1 との組み合わせだけによって世界を記述できると信じていた。その夢は今、コンピューターの中である程度実現されている)が生まれてしまう。これを解決するために、有理数(整数と分数)と無理数を統合した実数という概念が生まれた。実数の定義は線の定義と同じで、数/点は(情報として)そこに存在するけれど、それは大きさを持たない。有理数という私たちに分かりやすい数はすぐに見つかるけど、それはそこに実在している特別なものではなく、有理数の隙間に無限に存在している無理数との連続の中に成立している分節された特殊な点の一つでしかない、という考え方だ。現実には量を持たない(ゼロである)点の集まりが実数と線という現実に認識可能な集合体を形成している。

でも、いろいろな二次関数の問題を解いて行くと、ある種の問題の解に √-1 という決してあり得ない数(二乗して -1 になる数は数学の体系の中に有ってはならない)が生まれてしまった。これを虚数と呼び、この数を巡って数学内部のみならず、哲学、神学をも巻き込んだ大論争になった。哲学的に考えれば、有り得ない物が存在するはずがないし、神学的に考えても、人間中心の世界を創造した神が人間の理解を超えた物を作るわけがない、という反論だ。そんな議論が何十(百?)年も続き、現在ではこの虚数も数学の内部では数の基本単位として認められている。その数がたとえ存在しない数だとしても、数学の内部でその数が矛盾さえ生まなければそれでその世界は成立するからだ。そして現代物理学の量子力学では、この現実の世界を記述するために、有り得ないはずの虚数が使われている。結局、数学が勝利したわけだ。

さてそこで、では「数学とはそれだけで完結した完全な学問なのか」という問題が生まれる。この難問を解いたのが、ゲーデルという天才の『不完全性定理』の証明だ。ゲーデルはその命題を否定し、「数学の内部では数学の無矛盾性を証明することができない」ということを数学内で証明した。私たちは普通、数学は現実との対応関係を持たなくても成立する、極めて抽象性の高い、ものごとの関係性だけを扱う学問だ、と考えているんじゃないだろうか。でもそれはそうではなかった。関係性の外側、意味の外部という別な世界が成立していなければ、数学という学問の妥当性/自立性/自性も成立しない。

そしてこの事情は現実の世界でもそうである。たとえ目の前にこの机があっても、それだけではこの机の実在性は保証されない。その裏側に縁起が成立していなければ(この机と私との間に相互作用が無ければ)この机は現実の世界で機能/存在しない。存在者(この場合はこの机)の実在性とは、縁起の中でその存在者が果たす役割/有用性(数学では実数や虚数として受け入れられている名詞)のことなのじゃないのだろうか。

そしてこれは、生真面目なフッサール現象学の「間主観性(仏教では縁起)はどのようにして成立しているのか」という難問に対するヒントのような気がする。フッサールが開示した原初の現象学的還元(空)を、数学の本質(自立性/自性)を求める彼自身が形相的還元(本質を求めようとする行為/空と縁起の〈意味〉を確定しようとする行為)を行うことによって、論理的には解決不可能な空と縁起との迷宮の世界にはまり込んでしまったのではないのだろうか。

ではそこで問題だ。数学で記述される「虚数空間」とは、現実世界の中でしか生きられない私たちにとって、どのような世界なのだろうか。

虚数とは仏教で言われる空/無のことであり、虚数空間とは数学の世界における、空を内包した縁起の多様性ことなのではないのだろうか。

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