奥の細道を求めて

仏を求める旅

言葉とは何か 1.


私は、仏教の本質とはすべての生き物に共通の、生き延びるために必要な煩悩によって価値付けられた固定的現実世界、世俗(無明)から → 空(明)の世界を経由して → 縁起(自由な世界)としての現実を生きる(幸せの)こと、ではないかと思っている。

その三層の世界は違うものではない。お釈迦さまが遺されたお言葉の中にあるようにその三層の世界は同時に体験されなくてはいけないものなので、それならそれは同じコトバ(この場合の言葉にはコミュニケーションのすべてを含ませたいのでカタカナ表記にする。なので視線の交差やファッションのような曖昧なコミュニケーションも含むのだけど、できれば日常言語によって私は語りたい)によって記述できるはずだ、と私は思っている。

でも、ここで気をつけておかなくてはいけないのは、空と無の違いがどこにあるのかということだ。無は決して体験できないから言語化できないのに対し、空は体験している人がいるのだから言語化できるはずだ。でも道教の伝統が深い中国禅では無と空を同時に主張するけど、インド仏教では〈無〉と〈空〉はハッキリ分けなければいけない(お釈迦さまの当時のインドには六派外道と呼ばれていた思想家の中に、浅薄な虚無主義者もいたので)。そして虚無主義者がいなかった中国では、道教と同化した中国禅はそんなコトバを否定するけれど、 チベット仏教(中観派)はそれを探究している。

オートリアの哲学者であるウィトゲンシュタインも『論理哲学論考』の中で、「論理的な言葉の意味の限界」を設定するけど、でもコトバは何かしらの使い方によって、体験できる世界のすべてを記述できるものだと私は信じている。そしてウィトゲンシュタン自身もそれは認めていて、「哲学的(論理的)言語ではそれを語れないけど、詩的言語、絵画、音楽ではそれを語ることができる」と述べている。でもそれははたして、論理的言語では語り得ない事柄なのだろうか。〈空〉は詩的言語、芸術でしか語り得ないものなのだろうか。私はそうは思わない。

そしてその探究のためには、その三段階の層に共通して使えるようなコトバのあり方はどのようにして成立しうるのか、という問題を解明する必要がある。それは、「世界と、それに関係している私はどのようにして成立しているのか」を哲学的に問うためには、論理的言語を使うしか方法がないからだ。インド仏教中観派のナーガールジュナ、バラモン教言語哲学派のバルトリハリも立場は違うけど、この点に関しては共通している。その難問への手掛かりとして、今私は言葉の問題を私なりに論じてみたい。言葉とは〈私〉と〈世界〉との接点なのだから、縁起としての三層の世界に共通するようなコトバのあり方を探究したい。


言葉とはそもそも、フランスの言語学者ソシュールが明示したように、混沌とした〈世界〉を分節するための道具/記号でしかなかったはずだ。現実世界の中の存在者(物)を人の意識によって差異化し、それらをグループ化する事によって人が一番生きやすい〈世界/文化〉を構築したのだ。そしてその試みは見事に成功した。私は、人以外の動植物もそれなりの〈世界〉を分節していると思うけど、完成した一つの〈文化〉を構築したのは人間だけだった。

人は言葉による共通認識を獲得したことによって、人が生活しやすい〈世界〉を、他の生物とは別に、独自に作ってしまったのだ。一度そのような〈世界〉を作ってしまうと、人の〈世界/文化〉は独自に進化してしまう機構を持ってしまうものらしい。

本来は各個人(生物)の分節でしかなかった〈意味〉が固定化し、社会共通の〈価値〉を持ってしまう。元々は自由な〈意味〉でしかなかったものが、自国だけで通用する貨幣のような固定した〈価値〉を持ってしまうのだ。流動的だった意味が固定化してしまうと、それはそれ自身で成立している〈実在/自性〉という概念に変化してしまう。仏教は流動的な存在/意味(縁起)は認めるけど、固定してしまった〈実在/自性〉は否定する。なので、言葉の問題は仏教でも中心的なテーマの一つである。


お釈迦さまの初転法輪の中でもこの問題は「正語」として四諦・八正道の一つに取り上げられている。恥ずかしいのだけど、私がこの四諦・八正道の重要性にやっと気づいたのはごく最近だ。私が30年くらい前に最初読んだ時、四諦・八正道なんてみんな当たり前のことじゃないか、と思ってしまったのだけど、その認識は間違っていたことにようやく気がついた。それは私が東南アジア諸国の上座部仏教の国を歩いたのと、インドの貧しい生きにくいカースト外の人たちの暮らしを一年以上も見たせいかもしれない。

八正道は一つづつを取り上げれば、インドでも日本でも現実を生きるためには当たり前のことだけど、それに四諦を関係付けて複合的に考えるととても難しい。八正道は「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」に分類されている。私はまだこの八つの相互関係を理解していないのだけど、最初の三つと最後の二つは、「正語」とは何か、を探究することによって統合できるんじゃないか、と考えている。

お釈迦さまの初転法輪では、前正覚山で共に修行した5人の修行者に一週間をかけて説明したと記録されている。お釈迦さまが覚りを開かれたブッダガヤーから初転法輪のサールナートまでは歩いて一週間かかったと思う(私は整備された道をチャリで走って4日かかったけど)。その間、お釈迦さまはご自身の覚りをどのように説明したらこの真理を、共に修行した五人の比丘(彼らはお釈迦さまが山を降りた時点で、彼は厳しい修行に耐えられくなって逃げてしまった、と思っていたのだから)に納得してもらるだろうか、と必死にお考えになったと思う。そしてその結果を一週間かけて説明したのだ。一週間目に最初の一人が覚りを開き、それからまた何日かして最後の五人目も同じように覚りを開いた。お釈迦さまはいったいどのようにご説明なさったのだろうか。私もその場に居られたらな、と思うけどそれは不可能なので、自分なりに類推するしかない。


言葉の使い方の例として、以前の記事でも書いたので「りんご」と「月」という言葉を考えてみる。りんごと月はまったく違うものだけど、形が似ていることもあるので、りんごが空に浮いていると見てもいいし、月が美味そうだと思ってもいいんじゃないだろうか。そっちの方が自由だし、面白い。でも、ピアジェというフランスの児童心理学者は言葉を「個人の外部にあるゆえに人間を支配するもの」と定義した(ピアジェ『構造主義』フーコーの定点)。言葉は、第一義的には、個人の内部に成立するものではなく、個人を超えた社会共同体の内部の規範として成立しているのだと(ウィトゲンシュタンの私的言語の不可能性)。似ているからと言っても月は食べられないし、りんごを放り投げても空には浮かばない。「そうなるかもしれない」と考えるのは自由だけど、実際にそんなことを試すのは時間の無駄だし、何か事故が起きたら共同体の利益にもならない。でも世界中の昔話には、空を飛ぼうとした男の話しが多くある。大抵は社会の厄介もので、役立たずとして描かれるのだけど、何かのきっかけでホントに空を飛んでしまう。それを見て初めてみんなは人が空を飛ぶというイメージを受け入れるのだけど、実際に見るまではその人達はそのイメージを受け入れられなかった。

つまり、りんごはあくまでも木に実った食べ物で、月は地球を回る岩の衛星でしかない、と常識的に考えてしまうと、その言葉のイメージは固定してしまって実在/自性に変化してしまう。物/言葉の有用性/有効性/価値を第一義に解釈してしまうと、世界が固定してつまらなくなってしまうのだ。道元が言うような〈やわらかい心/コトバ〉を使うためには、どうしたらいいのだろうか。


では、コトバとはどのように使うべきなのだろうか。仏教、特に禅では日常(有効)言語を否定する。でも、文献を調べてみると禅宗の書いた物が一番多いのは何故なのだろうか。おそらくいったん、日常(世俗)の言葉を否定した上でそこから言葉の可能性を詩という方向で探究したからだろうと思う。

では中観派ではどうだろうか。中観派は言葉の論理性を信頼しているので、あくまでも論理的言語によって勝義諦(空)を探究/記述できるはずだ、と考える。でも論理とは〈モノゴト〉の間の関係性のことでしかないのだから、関係性だけでこの多様な現実の世界を探究/記述するためには、そのコトバの使い方を具体的にどうしたらいいのだろうか。


ここで私は井筒俊彦が書いたものを引用したい。以前の記事でも紹介したように、井筒は言語の天才で30数ヶ国語を自由に操ることができたらしい。たしかフランスの有名大学でギリシャ語、ラテン語、アラビア語を駆使しながら宗教学(イスラム教だったかな)の講義を担当していた、ということを何かの本で読んだ記憶もある。彼の専門はイスラームなので『イスラーム哲学の原像』という本の中の、イスラーム神秘主義の哲学者、イブン・アラビーを紹介した箇所を引用する。


われわれは、たとえば咲いている花を見て、「ここに花がある」などといいます。〔…〕しかし、イブン・アラビーにいわせますと、こういう表現は事の真相を非常に歪んだ形で呈示するだけのものでありまして、本当は花があるのではありません、存在があるだけです、花という限定を受けた形で。しかしこういうと、存在がものになってしまいますので、もう少し正確に表現して、存在的エネルギーがここで花という形に結晶して自己を現しているとでも言うべきなのです。つまり事の真相を叙述するためには、普通の日常的言語のほかに、あるいはその上に、一種の哲学的なメタ言語、高次言語というものをつくる必要が出てくるのであります。このメタ言語では「花が存在する」と申しませんで、日本語としては妙な表現になりますが、「存在が花する」とか、「ここで存在が花している」とかいう形でなければならないのであります。とにかく、この哲学的言語では、あらゆる場合に存在が、そして存在だけが主語になるべきであります。他のあらゆるものはすべて述語です。このように理解された「存在」、つまり絶対無限定な存在そのものを頂点において、その自己限定、自己分節の形として存在者の世界が展開する。(太字は井筒、下線は筆者による強調)


この文脈での「存在」とは存在者(個別の物)の究極の在り方のこと(ユダヤ教、キリスト教、イスラームでは唯一絶対の神)だ。西洋の一神教と日本やインドの多神教、そして仏教のような無神教は決定的に違うものだけど、でも私は井筒俊彦に共感を覚える。神も空も、もしかしたら、ある見方からすれば、同じなのかもしれないと。なので、この文脈での存在(神)は、仏教の文脈では「空」あるいは「縁起」と言い換えることができる。空とは(ある意味では)何も無いことだから、仏教のメタ(統合的/超越的/形而上的)言語においても主語は存在しない。

余談だけど「古代日本語に主語はなかった」と主張した言語学者もいたと思う。古代日本語はわからないけど、たとえば西行の歌で、

空になる心は春の霞にて世にあらじとも思い立つかな

文法的には「心」が主語であると解釈されるのだろうけど、この文脈では心が空だと言っているのだから、この歌には主語がない。文法的に主語を無くしてこの歌を読み換えてみるなら、

空 心 春の霞 ならいっそこの生きにくい現実世界を捨てて(出家して)しまおう

と読むこともできる。

『源氏物語』でも多くの場合に主語がない。これは主語が省略されていると考えるよりも、もともと日本語には主語がなかったのに、それでは文章の意味が通らない場合に仕方なく主語を補った、と考える方が良いと思う。主語がない方が日本語としては端的に美しく感じられる。

この感覚は仏教学者の山折哲雄が『日本人の心情』という本の中で、日本人特有の「遊離魂感覚」と呼んだものだ。生きたまま魂が肉体(垣根)を離れて遊ぶ。それに対して西洋哲学/神学では、精神は常に肉体に囚えられている、と考え、そこからの解放/自由とは、最後の審判において純粋な精神が「神の国」に、滅びる肉体を離れて永遠の命として生まれ変わる、と考えられている。西洋では純粋な精神/神という固定的で絶対的な〈モノ〉が実在している、と考えるのに対し、古い日本の精神文化では魂は個人の内部に留まるものではなく、自由に遊び廻れる〈コト〉だと考えられていた。このような宗教観が無宗教と言われている現在の日本人の心の中にも潜在している、と私は思っている。この考え方の基本はコトバの本質は名詞ではなく動詞にある、ということだ。バルトリハリが主張したように、コトバの本質は固定的な名詞にはなく、文脈にある。そしてその文脈を根本で構成しているのが動詞だ。なのでどの言語においても動詞を理解することが一番難しい。


次に、精神に異常があると考えられている人たちのコトバを見てみたい。統合失調症という病いでは、意味が理解できないコトバを喋る「新語創作」という症状が現れる事があるらしい。板橋作美という精神科医の『迷信の〈心〉』という論文(できれば木村敏の本から引用したかったのだけど、残念ながら今手元にないので)から引用する。


『異常の言語と論理』

〔…〕不可解とされるものに、統合失調症患者の言語と論理がある。統合失調症を言語の問題とみるか、論理の問題とみるかは、精神病学者によって分かれるようであるが、たとえば宮本忠雄は、彼らの言語に目を向ける。宮本は統合失調症のひとつのあらわれである妄想について、「言語なしには妄想は可能ではない」と言う。そして、 ソシュール流の構造言語学を応用して、統合失調症患者の妄想的言語を次のように説明する。

言表は、a→b→c→dというように統辞関係、結合関係をもっている。また、a,b,c,d それぞれは、bならb1、b2、b3、・・・という範列関係、連合関係をもっている。ところが、統合失調症患者の妄想的言表では、しばしば、a→b→b1→b2→b3→c→dというようなかたちをとっていると宮本は言う 。〔…〕無時間的同時的な範列関係が、言表のなかで時間的継起的な統辞関係としてあらわれてしまうのである。

もうひとつ、宮本が言うのは、言語記号(シーニュ)の「意味付けしようとするもの」(シニフィアン) と「意味付けされたもの」(シニフィエ)の分離、乖離である。彼は、統合失調症患者の妄想では、 ある言葉の分離した「意味するもの」が、別の言葉の分離した「意味されるもの」と結びついて、妄想的言語記号を作っていると言う。その一例として、ある妄想患者の話を使っている。その患者は「街の上ではなにもかも非常に違っていた。なにかが起ったにちがいなかった。 そばを通りすぎた一人の男はたいへん鋭い眼をしていた。たぶん探偵だった。〔…〕行く途中にはたいへん人だかりがしていた。彼にたいして何かが企まれているのだ。だれもが傘をばたばたさせたが、まるでなにか仕掛けがそのなかにあるようだった…」と語った。宮本は、この患者では、「傘をばたばたさせる」の「意味するもの」と、「仕掛け」の「意味されるもの」が 結合しているのだとする。〔…〕そのため病者は〈妄想の言葉〉でさらに世界を覆いつくそうとする」のである。


今、資料がないので私の曖昧な記憶だけど、さらに症状が進むと「ダダダの橋が掃除して頭はマイマイだけど箸い水」といったようなまったく理解不能なコトバを使うようになる事もあるらしい。なぜ統合失調症者はこのようなコトバの使い方をするのだろうか。おそらく、彼らの先鋭化された世界と私たちの慢性化された日常世界との間に埋められない深い溝が生まれてしまったからだ。その溝を埋めようとして、彼らは彼らなりの方法で〈私〉と〈その世界〉を統合しようとしているのだと思う。それを単純な〈妄想の言葉〉と言ってしまっていいのだろうか。私には、それは決して根拠のないただのツギハギの〈妄想の言葉〉だとは思えない。それは必要に迫られた上での必死な、一種の詩的言語での表現だ。そして実際に詩人が使うコトバも、本質的にはこのようなものではないのだろうか。

×

非ログインユーザーとして返信する