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仏を求める旅

チベット語の主格と目的格について

チベット語には、基本的には主格と目的格を表示する格助詞がない。なので日本人の初学者が先ず躓くのがここだ。名詞だけが格助詞なしにするとその関係が分からなくなってしまう。でもチベット語は日本語と同じでそれを会話の文脈の流れの中で判断するから、文脈を無視して一文だけを任意に切り出してしまうと訳の分からない例文ができてしまう。私も最初それで躓いた。

チベット語も日本語も、主語と動詞の組み合わせによって一文が完結する英語とは根本的に文章構造が違う。ところが日本語文法もチベット語文法もまったく性格の違う英語文法をお手本にして発達してきたから、やがてそこには齟齬が生じる。日本語における二重主語問題などがその最も良い例だろう。日本語文法もチベット語文法もそろそろ(主語が不可欠な)英語文法から解放されてもいい頃だ。そしてそのヒントになると思うのがチベット語文法の perspective という概念で、この議論については以前の記事で紹介したのでそちらを参照してもらいたい。




チベット語には基本的に主格と目的格を明示する格助詞がない、と言ったけど、場合によっては主語に具格を付けて主格を明示したり目的語に於格を付けて目的格を明示することもできる。チベット語はサンスクリット語を翻訳することによって発展してきたので、複雑な文章構造を持つ仏教論書を翻訳するためにはそのような区別が必要だったのだろう。口語文では主格に具格を付けるか付けないかは動詞の性質によって区別されていて、他動詞の場合は具格を付けるのが一般的だけど自動詞の場合に具格を付けるのは明らかな間違いだ。チベット語の文語文で主格の形がよく変わるのもおそらくこの規則に則っているのだろう。

動詞の性質によって主格の形が変わる言語は他にも多くあるらしい。言語学ではそのような主格を示す格助詞を能格と名付けている。文章の最も重要な要素は動詞だけど、日本語でもチベット語でも肝心な動詞は最後になるまで出て来ないので、それまでの単語の意味を確定することが難しい。なのでチベット語では主格の形を変えることによって、動詞の性質を前もって予測させることで文章構造を分かり易くしているのだろう。おそらく文語文が成立する前の口語では主格は能格として機能していたのだと思う。

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