奥の細道を求めて

仏を求める旅

李白と王維




写真

     春日酔起言志    春の日に酔より起きて志を言う

処世若大夢    世に処(お)ることは大いなる夢に若(に)たるに

胡為労其生    胡(な)ん為(す)れぞ其の生を労するや

所以終日酔    所以(ゆえ)に終日酔い

頽然臥前楹    頽然(たいぜん)として前楹(ぜんえい)に臥す

                      [縁側でごろりと寝てしまった]

覚来眄庭前    覚め来たりて庭前を眄(み)れば

一鳥花間鳴    一鳥花間[花の枝のなか]に鳴く[あるいは展く]

借問此何時    借(こころみ)に問う此は何の時ぞと

春風語流鶯    春風に語る流鶯(りゅうおう)[流れるように飛ぶうぐいす]

感之欲溜息    之(これ)に感じて溜息せんと欲し

対酒還自傾    酒に対して還(ま)た自(み)ずから傾く

浩歌待名月    浩歌し[大声で歌っ]て名月を待てば

曲尽已忘情    曲尽きてすでに情[どんな気持ちだったのか]を忘る[忘れてしまった]


野暮になるけど、解説してみたい。私はこの詩の志の中心は「借問此何時  春風語流鶯」の二句にあると思う。一句目の「時」とは何だろう。伝統的には、酒に酔って前後を忘れてしまった李白が目を覚まし「ここはどこ、私は誰、そして今はいつ」と風と鶯に訊いている、と解釈されているらしい。詩の解釈としてはそっちの方がおもしろくて美しいのだけど、でも私はこの「時」を人生の転機と捉える。李白もまた若い時には仕官を考えただろう。それが当時の一般的な若者の生き方の理想だった。でも反骨精神旺盛な李白はそんな常識に流されることを嫌っただろう。そんなつまらない人生を送るくらいならいっそ金は無くても、むしろ風やウグイスのように自由に生きることを選んだのだろう。そこで二句目、「春風」と「流鶯」は同じ李白なので、春風が流鶯に語る、と読んでも、流鶯が春風に語る、と読んでもいい。自然と一体になった李白が自然に語り自然が李白に語る。そしてその「語」が李白にとっての詩だった。

でも、次の句の「溜息」は何だろう。自然と一体になろうとした李白だけど、王維のようにはなれない、という悲哀だったのではないだろうか。ここで王維




写真

(ネット上で王維の肖像画を探したけど、良いものが見つからなかった。この本の表紙の絵はおそらく王維が描いたもの、王維は画家としても一流だった)の詩を引用する。


     山居秋瞑    [秋の日の山の別荘の夕暮れ]

空山新雨後    空山新雨の後[人気のない山に秋の最初の雨が降ったあと]

天気晩来秋    天気晩来秋なり[空の様子はすっかり秋になった]

明月松間照    名月は松間に照り

清泉石上流    清泉は石上を流る

蓮動漁舟下    蓮動いて漁舟下り

                      [池のハスの花が動いたので釣舟が下って行くのだろう]

竹喧浣女帰    竹喧(かまびすく)して浣女帰る

                      [竹の林が騒しいので洗濯女たちが帰って行くのだろう]

随意春芳歇    随意なり春芳の歇(つ)くること

                      [(幻想の)春の花は勝手に散るがいい]

王孫自可留    王孫は自(お)のずと留まる可(べ)し

                      [坊ちゃんは帰らず此処にいらっしゃい]


最後の句の「王孫」は古代の詩人、屈原の『楚辞』「王孫は遊びて帰らず、春草は生じて萋萋(せいせい)たれど」の裏返しなので王維自身のこと。『楚辞』の女神からの呼びかけだ。李白はこの詩を読んで、自分は王維にはなれないと感じただろう。そこで「対酒還自傾」になったのではないだろうか。

二人が生きたのは盛唐の時代で、文化が成熟し、政治的には安禄山の乱(中国政府内のクーデター)が起き、さらにそれが玄宗によって制圧された激動の時代だった(杜甫の『春望』を参照、これは安禄山の乱の直後の荒廃した長安の都の風景を詠ったもの)。おそらくその頃、李白は都にいなかった。玄宗皇帝の目の前で、実質的に政治を牛耳っていた高官の宦官を、ぐでんぐでんに酔っぱらった李白が侮辱してしまうという事件が起き、そのせいで李白は都を追放されていた頃だったと思う。王維は官僚だったので捕らえられてしまうが、最高の詩人として評価されていたので安禄山の下で詩を作らされていた。反乱を鎮圧した玄宗が復帰してから、安禄山の下で働いていた官僚は皆な処刑されてしまうが、王維だけは赦免され、官僚に復帰する。でも王維はそんな運命を喜んだだろうか。

上二首は安禄山の乱の前に詠まれたものだと思う。そしてその後、李白は次の詩を詠む。


    洞庭遊    洞庭に遊ぶ[洞庭湖北岸、岳州楼からの眺め]

洞庭西望楚江分    洞庭[湖]を西に望めば楚江[湘水と揚子江が]分か(れ)る

水尽南天不見雲    水は南天に尽きて[空にも湖にも]雲[翳り]を見ず

日落長沙秋色遠    日落ちて長沙秋色遠く[南岸の長沙の町は目には見えないけれど]

不知何処弔湘君    知らず何処(いずこ)にか湘君を弔わん


湘君は伝説上の女性の名前、愛の葛藤に苦しんだ挙句、湘水に身を沈め、死後湘水の女神になったと伝えられている。そして湘水は『楚辞』の詩人、屈原が入水自殺した川でもある。独立不羈の詩人、屈原と性格の似ている李白には深い思い入れがあっただろう。詩文の表面には出てこないけれど、この詩は屈原への弔辞だ。それを表明していないのは、国王に反抗した屈原に共鳴したら自分も迫害されるかもしれない、という政治的な保身の思惑があったのかもしれない。なので湘君に仮託して屈原を悼んだのではないだろうか。

伝説では、李白は舟に乗って遊んでいる時に水に映った月を掬い取ろうとして水に落ちて死んでしまった、と伝えられている。


各詩人の略歴を紹介しておこう。

屈原は紀元前三世紀頃の中国春秋戦国時代の楚の国の政治家で詩人。古代の人なのでその実在を疑う学者もいるが、ここではその議論は無用だ。仏教では存在の有無を問題にしないのだから。それよりもむしろその時代に文字が成立していて、今の私達もそれを読むことができるという事実の方が重要だ。彼は楚の国を愛し、国のために独善的な国王を諌めたが受け入れられず、追放されて放浪の旅を送る。


王維の生没年は西暦701~761年。当時最年少で科挙(官僚登用試験)に合格し、家柄もよく、画家・書家・琴の名手としても知られていたので、長安の都、玄宗皇帝の下で高級官僚にまでなる。上の詩はそんな王維が輞川に造った広大な別荘での作。


李白の生没年も西暦701~762年で王維と同じ。でも李白は科挙の試験を受けなかった。中央の官僚にはならなかったけど、詩人としては一流だったので各地方の官僚の食客になって広大な中国各地を渡り歩いていたらしい。今なら生涯フリーターのような生活を送っていた、と言えるかもしれない。


杜甫は西暦712~770年。王維や李白とは10歳くらい年少になる。長安にいた頃、李白と深い親交を結んでいたらしい。取り交わした詩も多く残っている。長安で何度も科挙を受験したけれど落第してしまい、仕方なく妻子を連れ、地方を旅して詩を作りながら下級官吏として食をつないでいた。でも、何かの事情で長安に戻った時に安禄山の部下に捕らえられ牢獄の中で『春望』を書いたのが46歳の時だったと伝えられている。李白も王維もその時56歳で既に晩年に近づいていた。優しい弟の杜甫は長安の牢獄の中でかつての友人であり兄でもある李白や王維を思い遣ったのだろう。『春望』の中の一句「白頭掻更短」は46歳の杜甫にしては少し年老いている。同じような境遇にいる王維や李白を思って謳ったのだろう。

×

非ログインユーザーとして返信する