奥の細道を求めて

仏を求める旅

柔らかいこころ

私は、仏教を学ぶ上で(のみならず、現実を生きる上でも)最も重要なことは「柔らかいこころを持つこと」だと思っている。これは道元禅師も仰っている。中国から帰国した道元は、朝廷に謁見し「お前が中国から持ち帰ったものは何か」という問いに対しただ一言「柔軟心」とお答えになった。当時国費で中国に留学した人びとはみんな貴重なお宝を持って帰国していたというのに、道元が持ち帰って来たのはその一言だけだった。よほどの自信がなければこんなことは言えない。

私は今の中国は、固定してしまっていると感じるから好きじゃないけど、唐の時代の中国は尊敬している。度量が大きく、外国人を差別せず、天才たちが多く生まれた時代だった。王維、杜甫、李白のような大詩人が活躍し、日本人留学生の阿倍仲麻呂とも対等に交際していた時代だ。道元が渡ったのは阿倍仲麻呂より少し前だったかもしれない。洞山、臨済、趙州、雲門のような大禅師は既にお亡くなりになっていたらしいけど、その法灯を受け継いだ如浄禅師に師事をして洞山直系の曹洞宗の認可を授けられたらしい。私のあやふやな記憶によれば、道元禅師が帰って来たのは遣唐使が廃止される最後の日本への帰国船で、だった。阿倍仲麻呂はそれを知らず、中国の政治学を学んでいる途中だったので、その船には乗り遅れてしまったらしい。そして最期まで、望郷の念を抱きながらも日本に帰ることは出来なかった。彼が日本に帰って来ていたら、日本の歴史は大きく変わっていたんじゃないだろうか。

さてでは、柔らかいこころ、とは何だろう。私たちは歳と共に身体が硬くなってしまうけど、柔らかいこころを維持することは生きている限り、出来ると思う。固まって(囚われて)しまってはいけないのだ。柔らかい、というのは自由であるということだ。こころを自由に保たなくてはいけない。こころが自由であるとは、一切の先入観や固定観念から離れていることだ。例えば、机を見てそれを言葉としての机と認識してしまってはいけない。存在としての机は椅子にもなるしベッドになることもできる。薪にすることも出来れば絵を描くことだってできるのだから。そして、こころはもっと自由になることができる。存在には不可能な、無にだってなれる、のだから。こころを無にして雪月花と遊ぶのが、縁起ということではないだろうか。

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