奥の細道を求めて

仏を求める旅

狂気とは何か

先の記事『三枚の絵』で述べたけど、狂気とは何なのだろうか。

狂気とは、常識/文化/意味に閉じ込められてしまった人間の解放の試みの一つだ。それは世界の改変のことである。人は世界の中でしか生きられないので、この世界の中で生きられなければ世界の方を改変するしかない。その試みの結果が、神経症や精神病と呼ばれているこころの病/狂気の症状だ。でもそれは、治療しなくてはいけない(正常と呼ばれている世界観の中に閉じ込めなくてはいけない)病気なのだろうか。もちろん私は医者ではないので、その人の苦しみを直にはあまり知らない。なので以下に述べるのは私の内部の狂気についての話だ。


狂気は時に人を傷つけこともある。もちろんその結果は法律によって罰せられなくてはならない(私は狂人を罰することができない現行の日本の法律には反対だ。私は狂人にも人権を認める)。でも確率的には、正常人よりも狂人の方が人を傷つける割合は圧倒的に少ない。でも狂人は自分を変えるのではなく、世界を変えてしまうので、この世界の中のいわゆる正常人にはその理由がわからない。なので人は狂気を恐れる。でも狂人は訳もなく人を傷つけたりはしない。狂人の論理の中では、それなりの(自分勝手だけど)理由がある。自分が殺されるくらいなら、いっそ相手を殺した方がいいというものだ。狂気の中では世界に対する恐れがそれくらい切羽詰まっている。それを実行することが許されるのは戦争という極限状況の中だけだ。ゴヤはその極限状況を体験した。戦争は国家的な狂気でもある。個人のこころの中の狂気を罰することが出来ないのと同じように、戦争という国家の狂気を罰することも出来ない。なので第二次世界大戦後の東京裁判は間違っている。そこにはほんとうの弁護者がいなかった。

それはさて置き、美が狂気の中に成立する、とはどういうことだろうか。岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言った。この爆発が狂気である。美はどこにでも成立するけど、いつまでもそこにいたのではやがて色あせてしまう。雪月花は儚いから美しい。そこに断絶がなくては、美という驚きは成立しない。それを示したのがピカソという変化し続けた天才だ。狂気はありきたりな現実の中にその裂け目を作り出すので、美を成立させやすい。

では問題だ。私はベラスケスには狂気を感じないけど、それではなぜあんなに美しいのだろうか。



ここでは多くの一瞬の視線の交差と、大きな室内空間の不安な緊張感が美を生み出している。この場面はベラスケスがまだ小さいマルガリータ王女の肖像画を描いているところに、王さまご夫妻がドアを開けて入ってきたところだ。なのでこの絵を観る人は王さまの視点でこの絵を観ることになり、あなたもこの登場人物たちの一人になる。

この当時の王室の女の子は他国との同盟関係を結ぶための政略結婚の道具として使われていた。それは世界中そうで、中国でも日本の戦国時代でも同じだ。なのでベラスケスがここで描いているのも小さな女の子の見合い写真だ。優しいベラスケスはこの可愛い小さな王女さまの行く末を心配しながら描いていただろう。同盟関係が結べなければ戦争になってしまう。そしてその責任がこの小さな女の子にあるなんて、とても耐えられない。

そしてこの100年後、ゴヤの時代にスペインは戦争に突入してしまう。この絵の上方の暗く大きな空間には、戦争という狂気に突き進む予感のようなものがある。

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