夢と現実の境界

ここで述べる夢は理想としての夢ではなく、毎晩実際に見る夢のことである。夢には楽しい夢もあるけど悪い夢もある。そして悪夢の中で、これは夢ではないのか、と疑ってみても見ているのだから現実に違いないと思ってしまう。夢では視覚と聴覚は再現されるけど、味覚嗅覚触覚は幻として思い込まれるだけなので、目が覚めれば感覚の質の差によってそれが夢であったことが分かる。だとすれば、夢と現実の境界は味嗅触覚の有無にある。でも夢はこの三覚を幻想によって再現しているから、夢の中ではそれが幻想であることを確認することができない。なので夢は覚めてみなければそれが夢であったことを認識できない。そして現実も夢と同様に五覚以外の第六覚が生まれれば、現実もまたもう一つの夢であったことが分かる。
少し分かりにくいかもしれないけど五覚以外の第六覚がある。それが意覚であり意識の中で空を認識する感覚器官である。意識とは現実を認識し統合するだけではなく、現実を否定する機能も持っていて、それを私は空覚と呼んでいる。仏教では一般に識覚の認識対象は法であると説かれるけど、この場合の法は空のことである。唯識思想ではこの識を無始劫来の無意識であるアーラヤ識であると捉え、煩悩の元であるアーラヤ識が智慧(空)によって転識することで覚りが得られると説く。覚りを縁起に沿って言語化するならそう言えるのかもしれない。でも私はもっと単純にチャンドラキールティの中観思想のように、論理ではない新しい覚(空覚)によって覚りがもたらされると捉えたい。
もう一つ、夢と現実の境界として「時間の連続性」ということを考えてみたい。そもそも時間そのものに連続性が含まれているのかという問題はあるけど、ともかく現実に比べて夢では時間に連続性が弱いとは言える。時間の連続性とは記憶のことである。夢では記憶の機能が弱まるので時間は途切れがちになる。認知症患者がさまざまな精神機能を失うのもおそらくこの記憶障害に起因している。夢の時間は現実に比べて短い間しか続かないのでもう一つの、夢と現実の境界は記憶の連続性にある。さて、では空と現実では時間はどのように違うのだろうか。空においては時間は止まる。それは時間が流れる現実とも夢とも違う。けれど空は夢とも現実とも違うもう一つのリアルである。時間が止まってもリアルは成立する。何故ならそれを体験できるのだから。