奥の細道を求めて

仏を求める旅

岸田劉生

寒烏

私が一番好きな劉生の絵は『道路と土手と塀(切り通しの写生)』


なのだけど、これはありのままの写生ではない。遠近法が塀と坂道でズレていてその結果、塀の消失点と坂道の消失点が適合せずに塀よりも道の方が長くなってしまっている。でもこれはもちろん意識的にしたことで、ありのままの写生ではない。でも写生とは何を写し取るのか、それは見た目ではなくその本質を写し取ることだ。

写生を強調したのは円山応挙だったけど、応挙だって対象を見たままには描いていない。例えば『藤花図』屏風は


このように描かれていて、おそらく現実にこんな藤の枝は存在しない。でもこの絵はくねる藤花の本質を描いている。


劉生でもう一つ有名なのは『麗子像』の連作だけど、私はこの絵はあまり好きじゃない。もし廊下にこの絵があったら夜は怖くてトイレに行けない。なぜ劉生は可愛い愛娘の麗子をこんなに怖く描いたのだろうか。それは『麗子像』がレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』


の美を構成する要素の一部の模写だったからだ。劉生は『麗子像』を「デロリの美」と述べいるけど、おそらくこの美は『モナリザ』の不気味さを強調しようとして描いたものだろう。『モナリザ』の評論で「あの微笑みは女性の優しさとも悪意とも残酷さとも見える」という評価を聞く。おそらく劉生はその不気味さを女性の美の本質として、まだ幼い無垢な麗子でより強調して顕在化しようとしたのでないだろうか。でも私には、この絵が成功しているとは思えない。残念ながら劉生にはレオナルドほどのテクニックはなかった。劉生は「私に速水御舟のテクニックがあったら世界一の画家になっただろう」と言っていたけど、おそらく御舟はレオナルドの暗喩だろう。明示しなかったのは負けず嫌いの劉生がレオナルドとの圧倒的なテクニックの差を自覚したくなかったからじゃないだろうか。『麗子像』は油彩の平塗りだけど、『モナリザ』はスフマートという肉眼で見ても分からないような細かい点描で描かれているらしい。そんな技法で描いたら何十年も掛かってしまうのは当たり前だ。絵を金に換算しなかったレオナルドだからできたことで、稼がなくてはいけない普通の画家にはできない。

女性の美の本質を描くことは劉生にはできなかったけど、それは劉生が本質的に肖像画家ではなく風景画家だったからだろう。劉生の人物画には良いものが少ないけど、風景や静物には傑作が多い。


李朝の壺と林檎、セザンヌのリンゴを意識したのだろうけどそれに捉われてはいない。おそらく、『麗子像』のシリーズは「美」という既成概念を超えるための試みだったのではないだろうか。その証は、手の描き方にある。


現実の例として、これは写真の14くらいの女の子の手で、若く瑞々しく美しい。


これは7才くらいの麗子の手。美しさはなくすでに中年の手だ。おそらく劉生自身の手との二重写しだろう。


これは年齢を超えたモナリザの手。個性がなく美醜を超えている。劉生はこれを目指したのではないだろうか。

最高の肖像画家だったゴヤは「手を描くのが最も難しい」と述べていて、肖像画の注文を受ける時は手を描くか描かないかで料金を分けていたくらいだ。そのくらい手には写生の本質としての個性が宿る。それは目と同様に手が最も頻繁に世界に関わる器官で、縁起の象徴であるからだ。

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