ものごとの意味
前回の記事で「意味付けという煩悩の牢獄」と書いたけど、では意味とは何で、何故それが煩悩なのだろうか。

言語学で意味論は形式意味論と認知意味論とに分かれているらしい。形式意味論は意味というものを明確に数学的に扱うものであり、現在のコンピュータがこれだけの発展をしたのは形式意味論(数理論理学)の成果によるところが大きい。でも形式意味論は意味を真偽のいずれかに一意に確定してしまうので、複数の意味を内包する(肯定も否定もする)日常言語からすると違和感がある(例えば日本語で「やばい」は昔は否定的な意味でしか使われなかったけど、今では普通以上の肯定を意味するように)。なので形式意味論への反論として認知意味論が生まれた。認知意味論は意味をゲシュタルトとして扱う。ゲシュタルトというのは全体は部分の総和以上のものである、という立場で、意味は一意に確定できず全体で一つのまとまりを形成しているという立場だ。よく仏教で例に引かれる荷車を考えれば解り易い。荷車は車輪、荷台、引き手によって構成されているけど、その内の部分のどれかが荷車なのではなく、有機的に構成された全体で荷車としての役割を担うことができる。なので全体は部分の集合以上のものである、という立場だ。普通の経験的感覚ではこの認知意味論の方が納得し易いだろう。しかしこの両者は共に日常的な意味を形成している。何故なら意味は複数の内容を含意すると共に、核をも内包しているからだ。例えば英語の 'on' は「上に」と多くの場合訳されるけど、その核は「接している状態」を指しているように。そしてその核から様々な意味が派生し日々変化して外延は確定しがたい。なので形式意味論と認知意味論は相互補完的に展開して行くだろう。
言語学では意味を以上のように捉えているけど、では何故、意味付けが煩悩なのだろうか。それは意味が人にとっての価値付けを行ってしまうからだ。お釈迦様が四聖諦の最初に苦諦を置いたのはこのためで、人は意味/価値付けを行うことによって世界を構成する。価値は人や国によって異なるからそこに差別や争い、すなわち苦が生まれる。しかし苦というのはそのような外の世界の中での人の在り方に止まらず、私たち個人の心の中にも成立する。何故なら心が世界を整理し秩序付けているのだから。それが「意味付けという煩悩の牢獄」ということだ。
もちろん世界を意味付けしなければ私達は生活することも思考することもできないので、一般生活ではそれは必須なのだけど、でもそれだけだと世界を一方向からしか見ることができないので、大乗仏教で言う、空/ありのままの世界、を見ることはできない。なので、空を体験するためには意味を捨てなければならない。禅宗で「不立文字」と言うのはこのことだろう。