奥の細道を求めて

仏を求める旅

「無自性」とは何か


今回は少し、仏教哲学に関する専門的な議論になってしまうので、興味がない方はトバしてください。




「自性は認めない」というのが仏教の最も基本的な立場なのだけど、では「自性」とは一体何なのだろう。仏教哲学で最も重要な用語の一つなのだけど、重要な概念だけにこれを明確に定義した用例を私は知らない。

私が思うに、「自性」とはデカルトが言った「我思う故に我あり」ということだ(デカルトについては以前の記事で述べているのでそれを参照してもらいたい)。つまりキリスト教で言うような唯一神、人間レベルで言えばアイデンティティのことである。「自性を否定する」ということは「私は私である」ということを否定するということなのだ。論理学や数学で言えば、最も根本的な公理である同一律「A = A」を否定することになる。でもさすがに「これは絶対に否定できない」と反論する方も多いだろう。でもこの自性を否定する論理は比較的簡単に納得することができると思う。時間を考慮に入れればいいだけだ。つまり、10年前の私と現在の私は同じではない、というのは当たり前のことなのだから。「でもそれは卑怯だよ」と反論されるかとも思う。なぜなら論理学や数学は要素Aの時間的な変化を捨像した上で成立するものだから、という反論だ。でもそれはつまり個人的な生きられている時間を論理学内に取り込むことはできない、という論理学の限界を表明したことでもある。そしてこのコトが、私はゲーデルの『不完全性定理』の内容だと思っている。

そしてこの『不完全性定理』という考え方は仏教を勉強している人には至極当然のことだと考えられると思う。何故なら、仏教では「絶対的な真理(神)は存在しない」と言うことがテーゼだからだ。

そして現代物理学でもこのテーゼは承認されている。量子物理学では「真理は確率だけでしか表現できない」と表明されているからだ。最初はボーアとアインシュタインの有名な論争から始まった。アインシュタインは「相対性理論」というニュートンの「絶対空間」と「絶対時間」を否定する革新的な理論を提唱したのだけど、アインシュタインは唯一神を信じていたのでボーアが主張する確率という「相対的な真理」が受け入れられなかった。アインシュタインは時間と空間は別のものではないという革新的な理論を発表したのだけど、その相違は系(それぞれの世界)のスピードが違うだけで数学的に変換できるかのだからやはり「絶対的真理」は実在すると主張した。でもボーアは波と粒子の相関性から粒子の位置を任意の一瞬では一律に確定できないとして、その位置は観察者(試験体)によって相対的に変化する、と主張した。これに対して「神はサイコロ遊びはしない」と言ったアインシュタインの反論は有名だ。でも現在ではアインシュタインまでの物理学は古典物理学で、ボーア以後の量子物理学が現代物理学と分類されている。

そして、ここでゲーデルが登場する。ゲーデルはアインシュタインを物理学だけではなく数学的にも否定してしまう。「完全な学問(あるいは一つの完全な世界)がそれだけで単独に成立するということは、論理的に証明することはできない」ということを数学内で証明してしまった。アインシュタインがニュートンを否定したように、ゲーデルはアインシュタインを数学でも否定してしまった。でもアインシュタインが本当に偉大だったのは、自分を否定したゲーデルと友達になったことにある。当時は第二次世界大戦下だったので、二人ともアメリカに亡命していて、同じプリンストン高等研究所で働き友達になった。家も近くだったので一緒に仕事に行き、その道すがらさまざまな議論を交したらしい。晩年アインシュタインが述懐しているけど「私の人生で最も幸福だった時期はゲーデルと一緒に歩いた通勤途中での会話だった」と述べている。二人とも真理の探究のために競い合っていたからだろう。ライバルでもありお互いを理解する友人でもあった(さてここまでの議論については、私は論理学も物理学も全くの素人なので間違いがあるだろう。詳しい方は指摘してください)。アインシュタインがゲーデルをアメリカに帰化させようとした時の逸話もとてもおもしろいのでいつか紹介したいのだけど、それは次の機会に取って置くことにしよう。


ではここで本題に戻って、「無自性」とはどういうコトなのか、について考えてみたい。よく「無自性空」と言われていて、無自性は空と同じだ、と理解されていると思うのだけど、私はこの解釈は少し間違っていると思う。何故なら空という概念には既に縁起が含まれているからだ。「無自性」に対応させるなら、「絶対無」という概念の方が良い。「絶対無」は禅宗で主張される概念だけどインド仏教では否定されている。でもこれには当時のインド哲学の状況と中国に輸入された時期とで背景が違うので、これには矛盾がない。

お釈迦様の頃のインドには虚無主義者として知られていたサンジャヤという人がいた。でも私はサンジャヤは虚無主義者ではなく不可知論者、あるいは唯名論者だと思っているけれど。なのでお釈迦様の現実世界の理解の仕方と似ていると私は思う。サンジャヤの弟子だったシャーリプッタやモッガラーナ達がお釈迦様の弟子になったのは、多分サンジャヤの教えが彼等には物足りなかったからだろう。私が思うにサンジャヤとお釈迦様の違いは、お釈迦様がその中に縁起の概念を導入したことにある。そしてそれを虚無(全く何も存在していない或は何も成立していない状況)ではなく空(数学で言えば0[ゼロ]として主張した。つまりお釈迦様は虚無/絶対無の中に留まるのではなく、そこから抜け出て生きる方法を確立したのだ。なので、中観派では無という概念を否定する。

それに対して中国人は現実的なので虚無主義者がいなかった。似ていたのは老荘思想だろう。なので最初の「空」の理解の仕方は老荘思想から類推したようなものだった。「計らいをしない」という荘子の「無為自然」として「空」を理解していた。そしてそんな状況に禅宗が入り、老荘思想と仏教との違いを明解にしたのだと思う。だから禅宗では空における無の側面を強調するために「自然」ではなく「絶対無」を主張した。

禅宗に「只管打坐」という言葉があるけど、私はこの言葉の意味は、坐ること以外は何もするな、ということだと理解している。つまり飲み食いも、息さえもするな、ということだ。もちろん本当にそんなことをしたら死んでしまう。なのでこの言葉の意味は、一度死んで来い、ということなのだ。


死ぬことと生きること、つまり「絶対無」と「縁起」との複合的な「空」という理念を理解するためにはまず「絶対無/死」を体験しなくてはならない。そうでなければ「空」の本当の意味を体験することはできない、そしてそれは瞑想の中でしか出来ない、と私は思う。

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