奥の細道を求めて

仏を求める旅

ライブラリーでの授業風景

その前に前回の『部屋探し』の記事で追加したいことがあるのでまず最初に。インドには不動産屋がないので大家との直接交渉で契約が成立すると書いたけど、そのせいで面倒な書類上の遣り取りや敷金・礼金・火災保険への加入などの強制的な書類上の手続きや余計な金を払う必要は一切ない。その場の口約束だけですべてが決まってしまうのは簡単で良いのだけど、契約がいい加減なだけに一番大事なのは大家の人柄だ。実はこの部屋に決める前にもう一つ決めてしまおうと思って行ったアパートがあったのだけど、契約の際に話したそこの大家がいけなかった。何を言っているのかサッパリ分からない。ヒンディーを話せる彼女が聴いても分からない。推測するにどうやらこの人は私には貸したくないらしいのだけど、でもその理由を説明してくれない。人種的な偏見があるのだろうか? ともかく何を言っているのか分からないので、そんな信頼できない大家の部屋には住めないということでここは止めることにした。そして今の部屋を見て話してみると、ここの大家さんはとても良い。学校の先生をしていると言っていて、インド人には珍しく誠実だ。この人は信用できると思って決めることにした。と言うわけで、そろそろ今回のテーマに入ろう。


ここは古いチベット語経典の版木なども保管している有名な図書館で、チベットの仏教文化を世界に広める活動をしている場所でもある。

私が受講している講義は『初級仏教哲学』


と『基礎チベット語会話』


の二つなのだけど、でもこの『仏教哲学』の授業がサッパリ分からない。理由は勿論ことばの壁にある。授業はゲシェーの資格を持った先生がチベット語で講義をしその助手が英訳してくれるのだけど、そのチベット語はもちろん英語もほとんど私の耳では聴き取ることができない。テキストに準じて進めてくれればまだ勉強の仕方も何とかなるのだけど、そのテキストを前提にした上で先生が具体的な事例について解説する、という形式で進めているらしい。もちろんそれもすべて私の憶測にすぎないのですけどね。

さてでは、一体どうやって私は勉強を進めたらいいのだろうか? 何とも困ったことです。そこで手掛かりになるのはやはりテキストで、本を読むのは3年くらい勉強していて、幸いこのテキストには英訳と漢訳も併記されているのでナントカ和訳できるとは思う。とは言え実際にやってみると、1ページ訳すのに5日も掛かってしまった。テキスト自体は26ページと比較的短いのだけど、このペースだと全文を訳すのに5ヶ月くらい掛かってしまう計算になってしまう。しかもまだ導入部で比較的易しいのだけど、この後複雑になると一体完成するのは何時になることやら。でもこのテキストはとても良いので、完成したらここで公開しようと思っている。


難しい『仏教哲学』に対して『基礎チベット語会話』はとても面白い。基本的な文法はもう知っているので、英語が聴き取れない私にも何故そうなるのかは理解できる。とは言え、前にも書いたことだけどチベット語の発音は日本人にはとても難しい。例えば ཡིན་ 」という言葉を私は日本語の母音の発音で「イン」と発音してしまったのだけど、その音は間違っていると言われて何度も訂正されてしまった。チベット語の「ཡིན་」は「in」ではなく「yin」と発音しなければいけないらしい。でもこの音は日本語には無いので最初私にはその違いを認識することができなかった。でも何度も聴いて真似している内になんとなく近づけることができるようになって来てやっと先生のお許しを頂いた。日本語の「イ」は舌を奥に引いて発音するけどチベット語の「ཡི་」は舌を下の歯の裏に伸ばしてするらしい。同じように日本語では「カ」としか認識されない音がチベット語では「ཀ་」「ཁ་」「ག་」の3種類に分かれる。「ཀ་」は短くて軽い「カッ」、「ཁ་」は息を強く吐く「カー」、「ག་」は低い声調の「カ」で場合によっては「ガ」にも聞こえる。単音で速く発音されると日本人にはみんな同じ音にしか聞こえないのだけど、チベット人にとってはまったく違う音らしい。さらに「シ」はもっとやっかいで「སི་」「ཟི་」「ཤི་」「ཞི་」の4種類に分かれていて、ここまでくるともう私にはお手上げだ。

でもこのようなことは日本語にもあって、最近 YouTube の記事で見たのだけど、例えば「おじさん」と「おじいさん」の聴き分けが日本語初学者には難しく、あと「そうですね」と言った時の「す」が聴き取れません、と生徒に指摘された日本語教師もいたらしい。日本語母語話者にとっては自明なことなので普段は気にしてないけど、外国語話者にとっては切り分けができない音が日本語にもある、ということだ。

そして重要なのはこの「自明さ」の危うさに気付くことで、仏教の本質は「自明さ」を疑うことにあると私は思っている。一切の偏見(自明さという前提)を排除して「ありのまま」の世界を直に見ることだ。なのでその意味でもチベット語の習得は仏教の修行にもなっていてとてもおもしろい。

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