奥の細道を求めて

仏を求める旅

死について

10年前インドに初めて来た時に自転車でガンジス河の周辺を走った。お釈迦さまが歩かれた道を私も自分の足で歩いてみたいと思ったからだ(今回は残念ながら私の体力がもうそれを許さないけど)。インドは交通マナーが悪く危険なので、それなりの覚悟を決めて走った。その途中のどこかでたとえ死んでしまったとしても、そうなったらそうなったで仕方ないというくらいの覚悟はしていた。実際、日本だったら明らかな交通事故になるような目にも三度くらい会ったけど、幸い大きな怪我はしなくて済んだ。幸運だったと思う。下手すれば骨くらい折れても不思議じゃないくらいの事故だったのだから。でもそんな時にも、インド人達は道の真ん中に倒れている私をよけてそれぞれの道を急いで行く。でもそれは決してインド人が他人には冷たいとか、外国人を差別しているという意味ではない。道を急いでいるようなインド人は大抵低いカーストの人達なので、自分よりも高いカースト(警官は大抵クシャトリア/戦士の出身)とは関わり合いになりたくないと思っている。インドの警官はホントに酷い。盗みなどをした犯罪者はボコボコに殴られ(その現場を実際に見た事もある)、それに少しでも関係している人間も、情報を得るためにやっぱりボコボコにされてしまう。インドでは法を犯さなくては生きて行けないようなアウトカーストの人たちに人権はない。暴行から解放して欲しければワイロを渡すしかないので、シュードラ以下のカーストの人たちは大抵の場合(よっぽど大きな事故でなければ)、交通事故が起きても警官は呼ばない。インドに金を落としてくれる大切な観光客の外国人を怪我させてしまうと大問題になってしまうからだ。

そんな風にして有名な霊鷲山



に着いた時(旅の終わり頃)、その隣にもう一つ別の山があったのでそこにも登ってみた。霊鷲山も隣の山もそんなに高くはないので簡単に登る事ができる。頂上には日本のお寺が建っていて、霊鷲山の反対側は高いフェンスで仕切られている。フェンス越しに向こう見ると、500mくらい離れたところに私が行きたいと思っていたジャイナ教のお寺のある山が見えた。もしかしたら山の尾根づたいに行けるかもしれないと思って、幸い観光客はだれもいなかったので、フェンスを乗り越えてみた。するとその足下は予想とは反して、断崖絶壁の垂直に切り立った深い崖だった。底の林の木が米粒くらいの大きさに見えるから、下は少なくても200m以上はあるだろう。高いフェンスが張られていたのも無理はない。フェンスと崖の間は50cmくらいしかない。立ったままそっと下を覗いたら思わず足が竦んでしまった。こんなに高い崖の間際に立ったのは生まれて初めてだ。好奇心もあったので念のため腹這いになってその崖を覗いてみた。すると丁度私の背丈くらいの所に小さな石が張り出していて、崖の岩を伝って下りればその石の上に立てそうだ。石の大きさは丁度私の足と同じくらい。私はそこに立ってみようと思った。死はすでに覚悟しているのだから、そこに立っても何ともないだろうと思って、まず顔の下の大きな岩を両手でしっかり掴み、慎重にゆっくり身体を崖上の岩に滑らせて下りる。でもそうやるとその小さな石は目視できないので、なんとか見当をつけてつま先を伸ばして探す。するとそれらしいのが当たったけど、足を乗せたらその重みで崩れ落ちてしまうかもしれない。慎重にゆっくり足を置いていくと、以外にしっかりしている。手の力を緩め、実際にそこに足を置いてみると、ぜんぶの体重を乗せても大丈夫そうだ。そっと私の身体全体をその上に置く。私の顔は崖側を向いていたので、岩にしっかり掴まりながらゆっくり慎重に向きを変える。するとそこには、私の足の大きさと同じ小さな石があり、垂直に切り立った崖と、1cmでも足を滑らせたら、たちまち落ちてしまうという直の恐怖があった。すぐそこに現実の死がある。それを感じた瞬間に私の金玉はキュッと縮み上り、身体中の毛穴がゾッとするくらいいっぺんに開いて冷や汗が流れ落ちた。

その時に私は、たんに頭で理解することと実際に身体で体験することとは決定的に違うのだ、ということを初めて知った。

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